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講義note:スコッチウイスキーの表象文化論 第3回 (神奈川大学国際日本学部 教授 中村隆文)

つい最近、拙著『スコッチウイスキーの薫香をたどって――琥珀色の向こう側にあるスコットランド――』(晃洋書房、2021年9月30日刊行)を上梓したので、その内容に少し触れつつ、食文化としてのスコッチウイスキーの研究の意義について、第1回から第3回の各講義で紹介してゆく。お酒にはあまり興味がない人も(あるいは飲めない人も)、スコットランドという国を知るための一つのきっかけとして、また食文化研究というものにどういう意義があるのかその理解のためにも、お目通しいただければ嬉しい。

講義第3回 表象について研究する

最終回である今回は、「学び」による「認識の変化」が、どのような意義をもつのかについて論じてゆく。

・知ることで「見える」こともある

前回までは、歴史を辿りながら、スコッチウイスキーというものがその発祥であるスコットランドのなかでどのようにして発生し、変化して、現在のようなものになったのかを述べてきた。これだけみれば、単なる歴史的叙述に過ぎないが、こうした歴史を知ることから何が学べるのだろうか。とりわけ、ウイスキーやお酒そのものについて無関心な人たちからすれば、スコッチウイスキーなんていうものは「ヨーロッパの端っこで生産された強いお酒」でしかないわけで、わざわざそれについて学ぶことに何の意義があるのか分からないかもしれない。
 しかし、そこには「いまだ知らない」ということに起因する無関心があり、ゆえに、そこでなされてきたこと、現在なされていることの「見え方」が限定的になっているということもあるだろう。たとえば、かつてはウイスキーなんてどうでもよかった人であっても、そのバックグラウンドであるスコットランドの歴史を知り、そこで生きてきた、そして現在生きている人々の苦労と知恵などを理解すると、その琥珀色の液体にはちがった景色が映るようになることもあるかもしれない(筆者がそうであったように)。
 これはちょうど絵画などの芸術を理解することと似ている。たとえば、木や森を見たことがない人が、美しい深緑の森林の絵をみたところで「濃いめな色の絵の具がカンバスに乗っている」だけでしかないだろうし、宗教や啓示の意味を知らない人がイエスの磔刑の絵をみたところで「おじさんが変な形の木にぶらさがっている」ぐらいのことしか思わないだろう。しかし、木々や森のことを知り、宗教の教義やストーリーを知る人が同じものをみれば、そこには塗布された絵の具が形作る輪郭以上の「何か」がみえ、それが心に響くこともある。このことは、いわゆる表象文化論というもので説明できる。

カレドニアン運河

・表象文化論の意義

表象(representation)とは「再(re) + 現前(presentation)」であり、知覚対象としてそこに現前している作品――として作り手が或る想いを込めて作ったもの――を実際に知覚したとき、それを認知する(つまり観察・観賞する)人の心的印象として現れたものである。しかし、人は同じものをみても、同じような印象をもつとは限らないし、認識のフレームが異なれば、同じものをみても、異なるように見えることもある。木や森を知らない人が名作と言われる森林の絵画をみても「物質的なカンバスと絵の具」しかそこにあるように見えないように、スコットランドの歴史や文化的バックグラウンドを知らなければ、スコッチウイスキーについても、それは「茶色の強いお酒」以外の何物でもない。しかし知っていれば、その色は「琥珀色」に、その香りは「スコットランドの大地と歴史を感じさせるもの」となるだろう。豊かな表象世界で生きるためには、それなりの感受性と、物事をいろんな角度からとらえられるような認識スキーマ(枠組み)の幅広さ、そしてそれを可能とする「学び」が必要ということである。
たとえば、スコッチのなかには「鹿」のエンブレムをもつブランドがある。ダルモア蒸留所のウイスキーはその一つであるが、その由来は、1263年、スコットランド国王アレクサンダー3世が巨大な鹿に襲われていたところを、マッケンジー氏族であるダルモア蒸留所のオーナーのはるか祖先が助け、以降、その一族(クラン)はその紋章を使用するようになったという逸話からきている。ほかに「鹿」に関わるウイスキーとして「ジュラ」という蒸留所のものがあるが、これは北ゲルマン語で「鹿」を意味する言葉に由来するもので、実際この蒸留所があるジュラ島というのは、人間よりも鹿が多く、筆者が訪れたときも、村人にはなかなか会えなかったが、鹿の大群にはすぐに会えたほどである。このように、同じ「鹿」に関わり、それを強調するウイスキーブランド(あるいはボトル)は、それぞれに異なる歴史や意味合いがあるわけで、それを知ることで、それぞれがどのような風土で時を積み重ねてここまでやってきたのかを理解することができる。それはあたかも、一緒くたに、あるいは一つの色しかそこにみえなかったものが、次第に異なる色合いと模様がそこにあることに気付き、世界が次第にカラフルで美しくみえるようになるような、認識の成長といってもよい。
 このように、世界の美しさ、目の前にあるものの価値を感じるためには、鋭い感受性だけでなく、それがなんであるのかを理解するための枠組みも必要となる。歴史や文化を学ぶことでそのスキーマはより豊かなものとなり、いろんな物事に触れるときに、その心に色鮮やかな景色を呼び起こすことだろう。だからこそ、「学問」とはただ物知り顔をしたり偉そうにするためのもではなく、自身がそれまで世界を見ていたその仕方を変え、新たな世界がそこに広がるきっかけとなりうるわけである。
願わくば、この文章をここまで読んでいただいた方、普段から講義を聞いてくれる学生のみなさん、そして、最近上梓した拙著を読んでくださった方々には、「スコッチウイスキー」に何らかの形で触れるとき――たとえ飲まなくとも、それについて想像したり語ったりするときでも――これまでは感じられなかった何かを感じとり、これまで見えていた世界が一つでも豊かなものになっていてもらえれば嬉しく思う(もちろん、未成年は飲んではならないし、成年だからといってこうした強い酒を飲みすぎて身体を壊したり、依存したりするのはよろしくないので、そこには各自気をつけてもらいたい。自戒の意味も込めて)。

以上で、第3回にわたった本講義を終わります。ここまで読み進めていただきありがとうございました。また、拙著『スコッチウイスキーの薫香をたどって』(晃洋書房、2021)の内容をまとめた動画をYouTubeにアップしてありますので、よろしければご視聴ください。

https://www.youtube.com/playlist?list=PLUCp-Q7DiUapJX2V7n6VZ4dXpJVAQVISR

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