オタクをやめるその日
1.これまでのオタク遍歴
発達障害とオタクは切っても切れない関係にあります。興味が限定的であり同じものを繰り返すことに安心する自閉的傾向があれば、その子は必ずなにかのオタクに変わると言っていいと思います。
私は2歳のときにポケモンに出会い、瞬く間にアンパンマンを卒業し当時いた251匹のポケモンを覚えた子どもでした。
小学生に入ってから図書館で読んだBLEACHに影響を受け、学校でイラストを描いて今で言う布教を行っていました。
中学校に入って不登校の時期にはニコニコ動画に入り浸る典型的なオタクに変化しました。
そこからキャラクター萌えで盛り上がるだけでなく作画の違いや脚本の意図について深読みするタイプのオタクになりました。
高校生以降は世界が広がり、人の勧めで漫画やアニメを見ることも増えました。その中でもプリパラにハマり二次創作を見るようになりました。その二次創作をきっかけにして大学時代は同性間の関係を扱ったものに触れることが多かったです。
ハマるものは変化してきましたが、一貫して好きな作品はBLEACHでした。
深読み好きな性分と相性の良い作品だったこと、唯一といっていいほどの「推し」がいることが理由です
2.偏執的な楽しみ方は楽しくない
私は元々お小遣いの少ない家に育ち、大学生時代も奨学金で過ごしていたためグッズは買えませんでしたが、その分1度見たものを何度も何度も病的なまでに繰り返し見ていました。(障害特性もあると思います)それは原作に限らず二次創作の小説や動画、クリエイターのSNSの一言、掲示板で交わされたやりとり、OPやEDソングのフレーズに至るまででした。
卒業後アルバイトを始め少し使えるお金ができた際には殆どグッズに使ってしまっていました。
決して全く楽しんでいなかった訳では無いのですが「この時間があれば・このお金があればあれができたのに」と思うような過ごし方をしていたのは確かです。
3.確かな満足
そんな私ですが、今はBLEACHのアニメ・関連情報だけに目を通して、グッズも飾れる分だけ買う、という程度に落ち着きました。
BLEACHのアニメが終わったら、オタクらしいことも殆どしなくなるのだろうなと何となく感じています。
なぜそのようになったのか?
理由は明確です。
「オタクとして満足する感覚があった」
からです。
BLEACHの再アニメ化にあたって界隈に活気が満ちたこと、賛否両論あれどスタッフの方々が熱量を込めて作品を制作していること、自分の「推し」がたくさんの人に愛されていると分かったことで私はオタクとしてかつてなく「充たされる」感覚を味わいました。
愛も供給もワクワクも溢れていて、これでオタクとしての人生は終わっても良いと思えたのです。
何やら壮大に聞こえるかもしれませんが、漫画やアニメに熱中することが当たり前だった時代が長かったためある意味ではアイデンティティの喪失なのですが、卒業式のような晴れやかさがあったことが衝撃だったのです。
別に「オタク=悪」という話ではなく、何かにときに病的に執着していたことがいつの日か満足してやめることができる、そう気づけたことが良かったと思うのです。
作品に関わる人の愛を実感できたことで、自らも愛されたような錯覚を感じたのかもしれません。
偏執的に何かに熱中してしまったとき、やめられないとき、それを愛している自分だけでなく他者の愛の存在に気づけるかが確かな満足を得る鍵なのだと思います。
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