やさしさ
今月から読みはじめた本がある。永井玲衣さんの二冊目の著書『世界の適切な保存』を、一日一題読み進めている。昨日(11月8日)は9つめ(エッセイの項目を数える単位は存在するだろうか)の「間違える」という題。
言い間違えるとか、聞き間違えるとか、勘違いするとか、そんなことは世界にあまりに溢れていて、そしてすぐに忘れられてしまう。(中略)
だが、間違うことによって、すましていた世界に割れ目が生じ、まるで見たことのない部分が露出してしまうこともある。(略)生々しく、とても触れられないような色をして、脈打っている。
“四季が死期にきこえて音が昔にみえて今日は誰にも愛されたかった(岡野大嗣)”
彼女の人のことばに触れるたび、わたしが何を考えて何を思い、それがどんなことばで話され、どのようにかして伝えられるよう努力され、結果としてどのように伝わっても(伝わらなくても)、大丈夫であると思える。誰かに分られなくても、自分さえ分からなくても、そのときわたしがそうであったということだけがある。だけである。
「分かるかどうか」ではなく「あるかどうか」にだけ目を向けることについて考えようとする。
この9つめを読み終えたあと、メッセージを交わしていた。数日後に控えたイベントで、わたしはギターを持って歌うことになっていたが、天気が少々心配だった。雨天時は室内ですか、と主催者に訊ねると、テントを3台張ることにした、と返信。それなら大丈夫そう、と返信を書いている途中に相手からの追伸。
「屋根の上ならギター大丈夫そうですか?」
ぜんぜん大丈夫ではない。屋根の上で服や顔やギターを濡らしながら、それでもなお歌い続ける自分を想像しようとする。それをきこうとしてくれる他の参加者の姿を想像しようとする。それだけの必死さで、強さで、やさしさで、伝えたいことやきいてもらいたい歌が自分にあるだろうかという問いが浮かぶ。答えに窮してしまう。でも、と思う。歌うのが屋根の上でなかったとしても、雨の中でなかったとしても、その必死さや強さややさしさは、わたしが自分に求めているものではないか、と。
自己との対話をそこそこに、おそるおそる返信してみる。
「屋根の下、ですか?」
相手から陽気な謝罪と肯定が届く。よかった、と思う。ライブで何を歌おうか、まだ決めていない。その場に居合わせた人の顔を見て、決めようと思っている。なんとなく、もう、大丈夫な予感がある。