22階 「ハンドソープ・マニア」
その男はよく手を洗った。
彼の手はいつでも石鹸の良い匂いがしたし、手首から爪先に至るまで一つの汚れもなくいつも清潔に保たれていた。
以前、この街の町長であるフンボルト・コルボー氏より、この街で初めて〈ハンドソープ・ソムリエ〉としての称号を与えられたことがあったが、ソブール氏は「私は決してそんな〈ソムリエ〉などと言う高尚なものではないのです。あくまでマニア。少しばかりハンドソープに気を配り、ハンドソープに人よりも少しばかり詳しい男でありたい」と固辞したと言う。
きれい好きで変わり者。
それが彼に対する世間一般のイメージだった。
「それではまずはこちらの石鹸で手を洗っていただけますかな」
開口一番そう言ったソブール氏は大柄な男性だった。
あれによく似ている。あの、あれ、喋るタマゴ……。そう! ハンプティ・ダンプティー。あんな体型をしている。体は大きくて丸いのに支える脚は頼りないくらいに細い。
ソブール氏のお宅にクロサキくんが足を踏み入れるとまず案内されたのは洗面所。大きなガラス扉の棚に整頓された多種多様な石鹸の箱はタオルの数よりもはるかに多い。
「これは私が旅先でコツコツと買い集めたものです。スノードームやマグカップやキーホルダーなんかを集めるのと一緒ですな。子どもの頃から蒐集癖はあったように思います。石ころ、トレーディングカード、プラモデル。ひと通り集め尽くしました。現在は石鹸を蒐集することに熱中していましてね。固形石鹸が特に好きなのですよ」
ソブール氏の言うように古今東西の石鹸が一堂に会している様はなんとも壮観であった。今の今までクロサキくんはハンドソープなどには気にも留めない、空になれば某有名メーカーの詰め替え用を買い求めて使用する男なのであるが、そんな彼も箱の中の石鹸を見てみたいと思わずにはいられない。
「あ。すごくいい匂いですね」
「お目が高い! これは私が愛用する〈グルーエンド社〉の石鹸でしてね。とにかく香りが素晴らしいのですよ。ほら、もう一度嗅いでみてください。いいでしょう? その中でも私の一番のお気に入りがこの〈ミント&レモン〉の香りなのです」
ソブール氏に薦められるがままに泡まみれの手で持った石鹸を鼻に近づければ、うん、やはりいい。胸が洗われるような心地がする。
ふたりとも入念に手を洗い、ようやくテーブルを挟んで向かい合う。手からは心安らぐ〈ミント&レモン〉の香り。綺麗好きなだけあって部屋も実に整頓されている。
——なぜ石鹸にこだわりを持ち始めたのですか?
「人は一日に何度も手を洗うでしょう。帰宅して。庭仕事をして。料理をして。はたまた食事の前に。一日一度も手を洗わない人はいないでしょう。手を洗うという行為は人間の生活と切り離せないのだと気付いたわけですな。しかし一度洗うという行為の重要性を意識してしまうと今度は、その、日に何度も繰り返す行為を彩りたいと思うわけです。おかげで雪の降る十二月に手が痛くなるほど冷たい水であっても嬉々として手を洗えるようになりましたよ」
はっはっはっと笑い飛ばすソブール氏の膝の上に乗せられた二つの手はむきたてのゆで卵のようにすべすべとしており、まるで年齢というものを感じさせない。
——最後に何か一言あれば、お願いします。
「石鹸に興味を持たれた方はこの街のミルキード氏の営む雑貨店〈烏賊と栗〉に石鹸を卸していますので、ぜひ足を運んでください。石鹸を知り尽くしたハンドソープ・マニアが作り上げた渾身の一作です。一つだけ言わせてもらえるなら、『後悔はさせません』ということです」
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