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24階 「ノートの白いところ」

 クロサキくんはリュックサックの中からすっかり表紙のくたびれたノートを取り出しました。ノートを綴じているリングのいくつかはひしゃげており、めくりめくられ堆積していった初めの方の紙は千切れかかっています。
 みなさん、もうおわかりかもしれませんが、クロサキ青年は根っからの「リング・ノート」愛用者であるのです。
 〈流浪の調査員〉としてインタビューの際、(調査員にとってインタビューは欠かせない仕事の一つであるのです)、必ずしも十分にノートを広げるスペースがあるとは限らないので、その点、リング・ノートは折りたたむことができスペースを節約できて使い勝手が良いのです。
 常日頃からリング・ノートを使用するクロサキくんの右手の小指側は押し付けられたリングの跡が薄っすらとではあるけれども確かに定規の目盛りのように刻まれていました。
「ベテランの調査員であればあるほど、利き手にリング・ノートの跡が深く刻まれているから、その人のキャリアを知りたきゃ、まず手を見ることだ」とはクロサキくんを育て上げた師匠の言葉でした。
 痛くなければリング・ノートではないのです。
 取り出したリング・ノートは後ろの方に、わずかに数ページ残っているばかりでした。
 これで〈ウゴウ・タワー〉に足を踏み入れた時に持ち込んだノートはすべて使い切ってしまったことになります。学生時分、ノートなどまともに一冊使い終えたことのなかったクロサキくんでしたが、調査員になってからはひと月と持たず一冊のノートを書き終えてしまいます。
 マンションの中ですから折良く文房具店があるわけもなし、〈運び屋さん〉を見つけた時にまとめて頼まなければなりません。
 〈運び屋さん〉と呼ばれる彼らはこの天高く聳える摩天楼を根城として、住人たちが望むものを運んできます。彼らに運べないものはなく、果たして〈運び屋〉と呼ばれる彼らが何人いるのか、正確に把握している者はいません。

 その日のインタビュー分を残り少ないノートでなんとか間に合わせて済ませたクロサキくんは階段中程の宿で少し早いけれど身体を休めることにしました。ノートがなければ仕事になりませんので、致し方ありません。
 先にカウンターでチェックインする大きな籠を背負った男性。それはクロサキくんの探し求めていた〈運び屋〉でした。
「はい。注文ですね。何をお求めですか?」
「〈KOBATO社〉のリング・リング・ノートを一ダース」
 その名の通り、リング・リング・ノートはリングの数が通常の二倍なのでした。その分、痛さも二倍なのですが、クロサキくんはマットな質感の黒い表紙となめらかな薄いクリーム色のページに魅かれて愛用していました。
「おっ! ノートですか。僕も常にノートを持ち歩いているんですよ。全く手付かずだから、ずーっと同じノートを持っているのですが。僕にとってはノートを持っていることに意味があるのです」
 小柄な身体で籠に背負われていると言えなくもない彼は、仲間内で「ハクシ」と呼ばれていると言いました。運び屋には一人一人、彼ら特有の呼び名があり、時に私たちにはわからない言葉でやり取りをしました。
「『ハクシ』に漢字を当てるなら『博士』ではなく、『白紙』なのです。なんでも知っているのではなくて、お前は当たり前のことを全然知らないからと」
「それはあんまりですね」
「まあ、呼び名にされた時は困惑しましたが、腹は立ちませんでした。僕は何かに詳しくありたいと思わないんです。むしろ、白紙の状態が愛おしい。何も書かれていない白紙というものは実はとても貴重なものではないかと思うわけです。みな、多かれ少なかれ、人生を過ごすうちに何かしらをノートに書き込んでいくわけですから、真っさらで残っていることが逆に貴重になります」
 それは凄まじい速さで白紙を埋めてきたクロサキくんの中にはない感覚です。
「リング・リング・ノートでしたよね。少々、お時間いただくかもしれません。すぐに必要ですか? それならば、これを使ってください。まだ一度も使っていませんから」
 ハクシがクロサキくんに手渡したのは表紙の擦り切れた、まだ何も書かれていないノートでした。


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