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23階 「お出かけの際はお忘れなく」

 その日、一番はじめの朝日が作り出した陽だまりの真ん中に一枚のハンドタオルが落ちています。
 もこもことした手触りのするネイビーのハンドタオル。隅に兎の刺繍が施されていました。そっと拾い上げてみます。朝日に慰められていたおかげでほんのり温かみを持っています。
 大切なものならきっと取りに戻ってくるだろうから、その時に誰かに踏まれていることがないように、クロサキ青年はそっとわかりやすい脇の方に避けてあげました。

 しっかりとした大人を目指しているクロサキくんはいつもポッケにアイロンがけされたハンカチーフを忍ばせている几帳面な男なのでした。
 ほら、こうして——。あれ? あれあれ? おかしいな。
 ポケットに入っているはずのハンカチの姿がありません。
 本当にいつもは持ち歩いているんですよ。おそらく朝、宿を出る時に忘れて来てしまったのでしょう。クロサキくんは朝に少し弱いのです。
 これでは手を洗っても拭くことができません。濡れた手をズボンで拭いたり、自然乾燥させるような真似はクロサキくんの望むところのしっかりとした大人ではないのです。
 一度登ってきた階段を今朝の宿まで降りなければならないのかと、悲嘆に暮れるクロサキくん。その顔があまりにも可哀想であったのか、「どうかされましたかな」と顔を覗き込むようにしてひとりの男性がクロサキくんに声をかけます。
「ハンカチを忘れてきてしまい、戻るべきか、先に進むべきか迷っていたところだったんです。けれども、僕には上にどうしても遅れることのできない用事があって戻るには時間がないんです」
「なるほど。なるほど。ではこれでどうですかな?」
 と言うが早いか、彼が閉じていた両手のひらを開くとその間から泉が湧きだすようにハンドタオルが溢れてくるではありませんか。
 わあ。落ち込んでいたクロサキ青年も思わず感嘆の声が漏れます。
「マジシャンなのですか」
「正しくは『元』マジシャンである。マジシャンは辞めてしまった。私はもう表舞台に立つ人間ではない。こうして一夜城のような街を渡り歩くのだ。今はこの兎のリーさんとこのマンションを探索している。ひとつ、リーさんはレディであるから気をつけるように。彼女はただの兎として扱われることが我慢ならないのである。マジシャンとして舞台に立っていた頃はもっとたくさんの鳩や兎と一緒にやっていたのだが、私が引退すると同時にすっかり私の元から消えてしまった。これが私のマジックではないのが悲しい。彼らとはビジネスの関係だったということなのだ。これには私は少なからずショックを受けた。数日間寝込んでしまうほどにだ! だから私はただ一人残ってくれたリーさんをひどく溺愛している。彼女専用のハンドタオルもある。彼女はこのハンドタオルが無ければ眠れないのだ。しかしうっかりしていた私はリーさんのお気に入りのハンドタオルを落としてしまった。幸い、すぐに見つかったが焦った。ハンドタオルがない辛さは身に沁みてわかっている」
 当のリーさんは人間たちの話に飽きたのか、ハンドタオルの上で気持ちよさそうに眠っていました。それは今朝クロサキくんの拾ったあのネイビーのタオルでした。
 たくさんのハンドタオルを抱えたクロサキくんでしたが、気になることがありました。
「お心遣いはありがたいのですが、これは僕のタオルではないのです。僕はこれからも上に登って行くことになるでしょうから、いつ返せるかわからないものを受け取るわけにはいきません」
 元マジシャンの彼はみなまで言うなとばかりにクロサキくんを手で制して、
「わかっているとも。キミが探しているのはこれだろう?」
 と言った彼の手にはクロサキくんのハンドタオルが握られていました。 


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