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「ばあちゃん」と「グランマ」……祖母ふたりの思い出


おばあちゃんの家の“あるある”

先日ネットを拾い読みしていたら、「おばあちゃんの家の“あるある”」をテーマにした掲示板があった。

「仏間の鴨居にご先祖の写真がいっぱい」
「千円札をティッシュにくるんで、お小遣いだよと渡される」
「おやつはいつも、おせんべいやみかん」
「謎の煮物が夕飯に出てくる」……などなど。

「ああ、本当に、その通り」と言いたくなるような項目が並んでいた。どの項目も、田舎っぽくて、ちょっとダサくて。でも、孫を思う素朴な暖かさがにじみ出ている、そんなものばかりだった。

母方の祖母

私の母方の祖母も、そんな感じの人だった。30年ほど前に、亡くなってしまったが。

北海道の海辺の街で、祖父母は夫婦二人暮らしをしていた。元は漁師の番屋だったような、古い木造の家だ。

祖母は炭鉱の町の出身で、元鉄道技師だった祖父と結婚した。祖父は、鉄道退職後は酒ばかり飲んでいたが、祖母はとても働き者であった。新聞配達や行商など、いくつも仕事をかけもちしていた。私たち孫は、祖母を「浜のばあちゃん」と呼んでいた。

祖母は、質素で地味な服を着て、古びた台所でよく魚の煮物を作っていた。私やきょうだいは、魚くささが苦手で、その煮物をあまり好まなかった。ご飯を食べずに、あとでスナック菓子みたいなものを「ばあちゃん、これちょうだい」ともらって食べてばかりいた。

父方の祖母

いっぽう父方の祖母は、そういう「ちょいダサ可愛い」おばあちゃん像とは少し違っていた。

父方の祖父は国家公務員だった。祖父母はどちらも穏やかな性格で、いつも仲良く、会話もおっとりとした感じであった。

自宅は都会の一戸建て。祖父の書斎や応接間もあり、リビングにはピアノがあった。当時ピアノを習っていた私が弾いてみせると、祖母はいつも「また上手になったね」とうれしそうに微笑んでくれるのだった。

祖母の、若い頃の写真を見たことがある。色白で、目鼻立ちのはっきりした若き日の祖母は、子供心にもきれいだなと思った。

泊まりに行くと、朝ご飯はバタートーストと紅茶、両面焼きのハムエッグ。お出かけするとデパートに連れていってくれた。

祖父が定年を迎えたあとは、夫婦で何度か海外旅行にも出かけていた。まだ、海外旅行が珍しかった頃のことだ。

いつだったか、ヨーロッパで撮った写真を見せてくれたことがあった。

「どこの国の街も素敵だったけれど、この年になると歩き回るのが億劫でね。海外旅行は若いうちにするものね」。

ちょっと寂しげに、そうつぶやいた祖母の表情を、私は今もよく覚えている。祖母が亡くなったのは、それから10年ほど後だ。

二人の祖母あっての自分

私が中学生になって英語を学んだとき、「grandma(グランマ)」という単語を知った。「おばあちゃん」という意味の単語だった。

その時私は、すぐに父方の祖母のことを思い浮かべた。父方の祖母は、「ばあちゃん」ではなく、「グランマ」だな、と。おしゃれで、おっとりとした優しい祖母。「グランマ」という響きがぴったりだ……と思ったのだった。

いっぽう、母方の祖母は「ばあちゃん」そのものだった。ちょっとダサくて、でもほっとする暖かさ。「ばあちゃん」のことを考えると、海辺の街の、潮の匂いを思い出す。あるいは夏祭り、夜店で買ったもらったヨーヨーの、鮮やかな赤い色を思い出す。

「ばあちゃん」と「グランマ」。どちらも私にとって、大切な存在。どちらが欠けても、私はこの世にいない。この二人がいてこその、今の私なのだ。

大変な時代を生きて、私に命をつないでくれた二人の祖母。ああ、なんだかまた二人に会いたくなってしまった……。

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