見出し画像

「101回目の呪い」:ゴールデンボンバーの曲感想

死んでしまいたいと嘆く君のために

ゴールデンボンバーのPVはちょくちょく演奏してないし、変顔だし、映像情報が多すぎる上にぶっ飛んでいるので曲の内容が入ってこない。
そのなかで「101回目の呪い」のPVは一番まっとう。しっかりと演奏しているし、ちゃんとヴィジュアル系として格好良いし、曲のイメージに添っている。(個人の感想です)


■どうしても伝えたい

タイトルはドラマ「101回目のプロポーズ」から来ていて、100回駄目でも101回目には伝わるように何度でも伝えたい。そんな印象。

「イヤホン」と同様に「101回目の呪い」も歌い手(作り手)と聞き手(ファン)の関係だと感じました。

「イヤホン」と比較すると聞き手がブログを読んでいるのではなく、聞き手が「手紙」として伝えているので、曲を聞いてもらえるという確信はより強くて、僕の曲を必要としてくれているファンに向かっています。

「イヤホン」は遠くに離れた誰かの為に大きな声を出して伝えよう、という気持ちがするのに対して、「101回目の呪い」は直接会えれば、知り合えば、話せれば、伝わること可能性があるはずなのに、どうしてもそれが出来ないへただりに苛立ちをもっているような印象があります。

公式サイトを見ると初出が2014年1月1日でした。
忙しさの上昇期と制作時期は重なっているようです。大ヒットする前とは環境が変化しすぎて聞き手すべてを個人として見ることが容易ではなかったのかも。

読んでくれている、知ってくれると信じて伝えている。そんな「手紙」に対して個として同じもの(≒手紙)を返すことは出来ない境遇だけれど、君が辛い状況であることを見過ごすような真似は出来ない、と「声を上げ」る。

■問いと答え 生きるとは何か?

何か(おそらくは生きる意味)を問いかけられ、「馬鹿で暗い」「死のうとした過去」を持つ「僕」は「わかんない」と答えます。

かつて「死のう」としていた。今は生きているけれど。
「この世の生きる価値」を見つけた訳ではなく、「生きるとは何か?という問い」に「答え」をみつけた訳でもない。

「死のう」と考えなくなっただけだ、という気づき。

そして、そんな消去法で生きている僕が、生きられぬと嘆く君を救うためには、生きることの、価値を、答えを、僕自身が見いださなくては、という気持ちがこの曲にはあるのではないでしょうか。

(もう少し邪推を含めるならば僕にとって「この世の生きる価値」は音楽活動なのではないかと。
たいがい思うのはアーティスト「鬼龍院翔」は音楽家として生きる意味や意義や価値や理由は考えに考え抜いた末にそれなりの結論がでているけれど、人間として生きることにはあまり重きを置いてないというか…良い意味で美味しいもの食べて寝る、ぐらいしか考えていない気がしています。)

私はわからないことに「わからない」と答えられることは自分にも相手にも誠実だ、と思っています。
時には失望され馬鹿にされることもあるかもしれないけれど、

■呪いと祈り

「呪い」って特殊すぎる言葉。
呪いの言葉=呪詛を調べるとこんな言葉が出てきます。

じゅ そ【呪詛】
恨みに思う相手や物事に災いがかかるように祈ること。のろうこと。
weblio国語辞典
https://www.weblio.jp/content/%E5%91%AA%E8%A9%9B

呪いとは祈ること。ベクトルは正反対でも。

「強く、強くならなきゃ」
直接手紙をもらうことはできても、直接手紙を返すことのできない関係で強くなるとは?何をして「強く」なるとするのだろう?
私は作り手・歌い手として強くなり強い曲を作ることだ、としました。聞き手の心に深く届き、響くような曲。

こんなネガティブで陰気な「言葉」で出来た曲を、君が生きる為に「必要」だと言うのなら声を上げよう。
「生きるとは何か?」という問いに答えることは出来ないけれど、「生きろよと何度でも言ってやる」。

それはまるで「呪い」のように。強く強く。

■身代わりについてと雑感

「身代れ」は言うまでもなく藁人形をイメージしていて、女性のお守りとされている面もあるようです。厄災や病魔を身代わりに引き受ける存在。


ここからは雑感。

私がこのPVを見て哀しいと感じるのは最後のシーン。

藁人形やお護り、パワーストーンが持ち主への災厄を身代りとして引き受けて損なわることを意味しているのだろうけれど。

ヒロインは全編に渡ってスマホで歌い手を見ることと曲を聞くことによってのみ、生かされ、社会の不条理から守られている。でも、社会はそんなに冷たいものじゃないと自分で一歩を踏み出す力を持てた瞬間に、大切にしていたスマホはガラクタとなり顧みられることがなくなるという点。

「僕(しもべ)」という言葉。
人としての権利を持たず、他人の所有物として扱われる存在。
君が好きな時に好きなように消費して、そして必要としなくなったら使い捨ててくれればいい。

歌い手と聞き手、の関係っていろいろ意見はあるだろうけれど、ゴールデンボンバーというアーティストはかなり聞き手優位と考えているように感じます。(最たるものがファンファーストという言葉)

創作一本でやっていくからには一生続けていくつもりでアーティスト活動しているのだろうけれど、どれだけ熱心に活動していてもファンが一生ファンであり続けることは本当に難しいことです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?