嫌われ松子の一生(追記)
原作版との比較を交えた映画『嫌われ松子の一生』の感想について追加して述べたいと想います。
上下巻という長い小説を映画化したにしては、かなり原作に忠実なことに感心しました。勿論歌を歌わせるために国語から音楽の先生に変更したり、校長先生との下りもなかったり、覚醒剤に関してはすっぱり削られたり、変な顔をしたりしていますが、一生に関してはほとんどきちんとまとめられています。
原作では比較的真摯な性格の笙くんと(特に)明日香が、映画ではバカっぽいのはこの際目を瞑らなくてはいけないでしょう。
■不幸って何?
世間のレビューや感想を読むと不幸ばかりだった彼女の一生、と語られることが多いのですが、私は決して不幸ばかりではなかったと思うのです。勿論最初に一地方の高校生教師のまま勤め上げ、佐伯と結婚していればささやかでも幸せな一生を終えることが出来たでしょう。 だけど、岡野との愛人生活そのものは彼女に生きていることの歓びを見出させたし、「トルコ白夜」でナンバーワンだった彼女はやり遂げた充実感に満ち溢れていたと思う。 小野寺を殺して逃亡していた時の島津との短い同棲生活は彼女にとって夢にまで見たような穏やかなものだったはずだし、受刑中に理容師の資格を取ろうと勉強していた時、彼女は充実感に満たされていたと思う。 そして龍洋一との生活、刑務所から出てくるのを待っている間の数年間。彼女は決して不幸だけではなかったはず。
彼女を「痛い性格」だとおっしゃる方もいます。でも私には彼女を笑う事は出来ません。 修学旅行先での不器用な隠蔽工作、岡野と結婚したいがために彼の妻と対面してしまう作戦、決して誠実とはいえない人間ばかりを愛してしまう性格。
「ぶきっちょだなあ」「オバカさんだなあ」とは思います。 だけど、彼女は子供の頃から一番最初の恋人ともいえる父親に誠実には愛し返されず、それでも愛されること・興味を持ってもらうことを切望してやまなかった。だって、「恋人」や「男」は選べるかもしれないけれど「父親」は決して選ぶことが出来ないのですから。 自分が要求するような穏やかな結婚生活を与えてくれる男性を選ぶのではなく、自分が愛した男性に自分と同じ夢を見てもらいたいと願う。 当然と言えば当然、彼女の夢は叶う事はない。
川尻の父親は、妹を病みがちな身体を気遣って元気に出歩くことが出来ない彼女を不憫に思うから、何くれとなく世話を焼いていたのでしょう。父親からすればどの兄弟にも平等に愛情を注いだつもりなのかもしれない。けど、松子からしてみれば不公平以外の何物でもない。久美だって望んでその身体に産まれたわけではないけれど、松子だって望んでそうなった訳ではない。
■原作の松子さん・映画の松子さん
比較してみると、原作の松子さんの方が情に怖い攻撃的な性格のような印象でした。映画の方は周囲に気を配ることも出来るやや内向的な性格。 映画でも「あんたなんて可哀想でもなんでもない!」というセリフがありますが原作の方がことさらに激しいです。松子も姉として久美を可愛がっているけれど、こと父親の愛情の奪い合いに関係することになると途端に憎悪とも言える感情がむき出しになります。 この激しさは妹の件だけにかぎらず、男から裏切られた際の失意と怒りぶりは、半端ではありません。良い意味では、次の人生に前向きに「負けない」「見返してやる」というギラギラとした野望に満ち溢れています。
しかし、悪い方向に流れてしまうこともあります。
最も顕著に現れるのは刑務所に服役していた龍洋一をひたすらに待ち続けたのに裏切られた直後からの、退廃ぶりです。映画では光GENZIの追っかけに夢中になったりすることも有りますけれど(苦笑)、後はひたすらに奈落の一途です。
ここで興味を引かれたのが、松子が精神的におかしくなっている下りです。 映画では「自分に生きている意味ない」「産まれてきてごめんなさい」と自分を卑下するようなノイローゼに陥るのですが、原作では「どうして○○は■■してくれなかった」と様々な相手に対して怒りを爆発させるヒステリー状態になってしまうところです。
この違いは何なのだろう。 映画化することによって彼女に関わる人間も少なくなっていますし、単なる表現の仕方のせいなのかもしれません。でも私は監督が彼女を「そういった人間」として描きたかったからだと思いたい。
実家で久美に酷いことを言って出てきてしまったことを心の中でいつまでも悔やみ続けて、東京の堤防沿いでぽろぽろと涙を流していた彼女。郷土に帰りたかっただろうにね。
ぶきっちょで「何で」男に裏切られるのか判らないオバカさん。だけどそれを他人のせいにしないで彼女なりの愛し方を貫いてひたむきに生きていた女性。
龍君は「松子は神様だ」なんて言っていたけれど、松子さんはそんな信仰みたいな愛情求めていなかったと思う。足元で額づいてくれる男性じゃなくて、一緒に一つの机でご飯を食べてくれるようなそんな人を求めていたはず。
多分龍君もその辺は承知していて、それが出来なかったから自分自身の贖罪のためにキリスト教を信じているのだろうけれど。 人生って難しいね。お互い思いやっていてもこんなにすれ違うなんてね。
■幸せって何?
彼女の人生の終末は、絶対映画オリジナルだと思っていたので原作とほぼ同じなのには驚きました。 人生の価値や幸せが死ぬ間際の感情で決まるとするのならば、果たして彼女の人生は幸福だったのか不幸だったのか。
堕落しきった人生から理容師への復帰を目指そうと思った瞬間この世から消えることを余儀なくされた彼女は人生が幸せだったと思っていたのだろうか。私にはどうしてもそうは思えませんでした。
だけど、天に昇る瞬間過去に回帰し、父親にも久美にも暖かく出迎えてもらえた松子さんは幸福そうでした。 本当の人生でまっとうな人間に戻ることは叶わなかったけれど、久美の調髪をする幻覚によって「やれる」と思ったのは、真人間に戻ることが目的というよりも好きな人(この場合久美に)なにかしてやれると確信したからなのかもしれません。
だから人生を他人の手によって終わらせられてしまったけれど、「できる」と期待に満ちたきもちで意識を失った彼女は幸せだったのかもしれません。
この「松子さんの一生」について質疑応答
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