緑玉で君を想い眠る㉑
4
なのに僕は、彼女の幸せを、守れなかった。
鎌倉にあるという、彼女の別荘へ行った日のことだ。
別荘に行くまでに、鎌倉観光をしていた。ご飯を食べて、彼女はお手洗いに行った。小さな路面店で店内には設置されておらず、店を出て、通り道を逸れた人気(ひとけ)の無い場所に、トイレが設置されていた。小さな建物の中に、男性用女性用の出入り口の扉が、隣り合う形で並んでいた。薄い扉の向こうに、個室が何個あるのかはわからない。ただ、中は広くはないだろう。言葉を選ばずに言うと、ボロボロな外見から、そう想像した。失礼な話だが、なんだか、治安も悪そうだ。
「守は店の前で待ってて」
「ここで待ってるよ」
「いいから、店の前で待ってて」
何を思ったのか、叶羽はそう言った。ここでも店の前でも、外ということに変わりはない。ならば女子トイレに入ろうとする男性がいないかくらい、近くで見張っていてもいいではないか。そう思ったのに、叶羽は不満そうに顔を歪めていた。
「……わかったよ」
渋々彼女の言葉に従った。
店の前で成している列に紛れないように、少しズレて、彼女を待った。
数分して、店内から女性が出てきて、お手洗いがある方向に向かっていった。また少しして、お手洗いがあった方向から車が来て、目の前の道を走り去る。車も通るのか、なんて思ったけれど、すぐに地元住民の車かもしれない、と思った。また少しして、先ほどの女性が戻ってきて、店に入っていく。店内に続く列が進んで、店に入った四人組の女性のうち二人がすぐに出てきて、先ほどの女性と同じ方向に向かった。しばらくして、その二人が戻ってくる。
……叶羽は、今どこにいるのだろうか。
なんとなく疑問に思って、戻ってきた二人に訊ねる。
「……すみません、今女子トイレに、他に誰かいませんでしたか……?」
不審者を見る目で見られて、慌てて付け足す。
「連れが戻ってこなくて……」
すると二人は顔を見合わせて、言った。
「私達以外に、誰もいませんでしたけど……」
「え……?」
嫌な予感がした。
まさか……、女子トイレを出た時に、男子トイレに連れ込まれてしまったのでは……。
短く礼を述べて、僕は男子トイレの方へ走った。しかし、中には誰もいない。
……では、どこへ……?
トイレを出た後は、店がある通りに続く道は一本しかない。叶羽の姿は、見ていない。
スマホを取り出し、メッセージを送ってみる。既読は付かない。彼女はサイレントモードにはしないし、通知もオフにはしない。マナーモードにはなっているかもしれないが、連続でメッセージを送ったら気付いてくれるだろうか。それから三つ立て続けにメッセージを送っても、既読は付かない。電話マークを押して、耳にスマホを当てる。無機質な着信音が鳴るだけで、繋がらない。終了マークをタップして、店の方向に走った。先ほどの女性二人が、店に入らず、その場にいた。
「あの……、大丈夫でしたか……?」
一人が心配そうに訊ねた。
「あ……、すみません、ちょっと、探してみます」
こういう時にどう答えるのが正しいのかわからなくて、それしか言えなかった。そのまま近くの店に入って、彼女がいないか探した。初等部の時みたいに、目に入ったものに興味を示して、好奇心のままにそれを観察しているのを期待した。とにかく、彼女の身に何も起きていないことを願った。
しかし、いくら探しても彼女はいない。
スマホを再び取り出して彼女とのメッセージ画面を確認する。既読は付いていない。
画像フォルダを立ち上げて、今日彼女から送られた写真を漁った。彼女は撮った写真をその場で送る。後でまとめて送ればいいのに、「今共有したいの」と笑う。彼女の顔と服装が一番わかりやすいものを選択して、店員に訪ねる。
「この人、見ていませんか?」
それを、観光客にも訊ねて回った。彼女がいなくなった場所から近いとか遠いとか、そんなことは関係なくなっていた。
彼女がいなくなる前に寄った店でも聞いた。「さっき一緒にいた子だよね?」と言われるだけで、それ以上の情報は得られなかった。道で訊ねた老夫婦は「一緒に探そうか?」と言ってくれた。しかし、小学生くらいのお孫さんを連れていた。せっかく三人で観光を楽しんでいるのに、それを邪魔するのは気が引けた。気持ちだけ受け取って、駄目元でお孫さんにも訊ねてみた。太陽に照らされた海みたいに綺麗な瞳の少年は、写真を見て、首を横に振った。お礼を述べて、再び駆け出した。
どれくらい経っただろうか。息が乱れていた。疲れからきているのか焦りからきているのかもわからない。そんな時に、握っていたスマホが振動した。
メッセージアプリで、叶羽の名前が表示されていた。
『ここに来て』という短い文章の後に、住所が書かれてある。
地図アプリで検索して、場所を調べる。そう遠く離れていない。順路を確認しながら、再び駆けていく。
着いたのは、洋風建築の建物だった。整備された芝生が広がっていて、建物に向かって舗装された道が続いている。その長い道を走り抜けて、ようやく玄関扉に到着した。扉を開いて、中に入る。
「叶羽!」
返事はない。
ただのイタズラで隠れていて、僕を驚かそうとしているだけであってくれ。
そう思いながら、室内を駆けていく。
見当たる扉を全て開けて進んで行っても、彼女はいない。一番奥の部屋の扉を開けて、絶句した。
左目から血を流して倒れている、叶羽がいた。
「叶羽っ……!」
近くで呼び掛けても、返答はない。
まず、救急に連絡しなくては。
そう思って、震える指先で、救急に繋いだ。その後は、何を喋っただろうか。一度スピーカーモードにして住所を伝えたことは覚えている。
通話を終えた後、血を流す彼女を再び両目で捉える。
止血しなくては。何か布は。一度使ったハンカチでも大丈夫なのだろうか。家具に掛けられている布の方がいいだろうか。どちらも衛生的によくないだろうか。揺さぶって意識を戻させた方がいいのだろうか。無闇に動かすのは危険だろうか。
そうやって、何かしないといけないとは思いながらも、何をどうしたらいいのかわからなかった。
「叶羽! 叶羽しっかりして!」
どうしたらいいのかわからなくて、それでもこのまま目を瞑ったままだと、彼女は目を覚まさないような気がして、呼び掛けた。
左側を下にして横たわっている彼女の右手は、体の上に乗るようにだらりと垂れていた。
その手を上から覆うようにして握った。そして、眠る彼女に呼び掛け続けた。
それからまたどのくらい経ったのかわからない。永遠に待っていたような感覚だった救急車の音が、ようやく聞こえてきた。
その音に反応したのか、叶羽がゆっくり目を覚ました。
「救急車来たから……! もう大丈夫だから……! あと少し頑張って……!」
その言葉の意味を理解していないのか、彼女はぼんやりとした目で僕を見ていた。
眠そうに、瞼が閉じられそうになる。
彼女は今度こそ眠り続けてしまいそうな予感がして、声を掛け続けた。手を握り返してくれるのを願って、少し力を込めた。
離さないから。絶対に。君を離さないから。
けれど、無力な僕が、いつまでも血を流す彼女の傍にべったりとついていることは叶わない。
救急隊員の手によって、僕達は引き離された。
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