緑玉で君を想い眠る⑰
2
新婦の入場と共に、拍手が湧き起こった。
昼間に行うガーデンウエディングは、エメラルドの光が差し込んでいる。
神からの祝福を受けているような気がした。
両サイドにゲスト席が並んで、その間に道がある。カーペットはないが、日差しで鮮やかさが増したエメラルドが、由貴のもとまで続いている。
輝一郎さんとお辞儀をする。そして、輝一郎さんの腕に右手で軽く添えて、一歩ずつエメラルドのウエディングロードを歩いて行く。
新婦側のゲスト席の最後列で、守が無表情で手を叩いていた。夢香が亡くなったのに、なぜこの場に来たのだろう。
彼の近くに、蓮社長と紗羅さんの姿がある、美蘭ちゃんは間に挟まれていて、目を輝かせながら拍手していた。
新郎側の最前列の席には誰もいない。代わりに、由貴のおじいちゃんとおばあちゃんの写真が置かれている。それ以外の人達は、挨拶で一度会った程度で、よく覚えていない人達ばかりだ。
この中のどこかに、犯人がいるかもしれない。
いや、ゲスト席にいるとは限らない。
建物の影に隠れていたり、スタッフに紛れ込んでいるかもしれない。
もしくは、あの広大な、森の中に――。
ゆっくりと、一歩ずつ、由貴に近付いていく。
由貴の背後には大きな一本の木が立っている。その枝に、白くて大きな布が、M字状に掛けられている。時折吹く風で揺れて、エメラルドの光が見え隠れする。
その布の隙間から、目にチカチカと光が入ってくる。
眩しくて目を逸らしたいのに、誘い込まれるように、そちらを見てしまう。
キラリと光って、強い光が、左目に入った。気がした。
思わず顔を背けて、その拍子にバランスを崩した。
足元が見えないウエディングドレスの所為か、普段あまり履かないヒールの所為か、転びそうになった。
花嫁が転倒しそうになったのを見て、ゲスト席からも一瞬小さな悲鳴が聞こえた。
「危ない!」
想像していた衝撃は訪れなかった。
代わりに、がっしりとたくましい腕が、私を支えていた。
「叶羽ちゃん! 大丈夫かい?」
私を力強く抱き締める輝一郎さんの顔が、すぐそこにある。
正面から体が密着している。由貴よりもずっと太い腕が、肩を、背中を通って、痛いくらい強く纏わりついていた。その腕が離れたと思ったら、体制を戻されるように、引き上げられた。
「大丈夫かい? 怪我は? ドレスも……汚れてはいないね」
エスコートを一度やめて、少し離れて、私の様子を伺っていた。
木々の隙間から漏れるエメラルドの光が、輝一郎さんの背を照らす。
輝一郎さんの背後に、白い布と光が重なる。
その姿は、あの時窓に反射して映っていた人影と、一致する。
――失った左目に焼き付いていた記憶が、蘇った。
「っハァ」
いつの間にか止まっていたらしい呼吸を再開させようとしたのに、上手く息が吸えなかった。
過呼吸になったように、上手く息が吸えない。
右目が熱くなる。無いはずの左目が痛み始めた。
「叶羽さん……? 大丈夫ですか⁉」
由貴が、私の異変に気付いて、駆け寄って来る。
それよりも早く私の異変に気付いた輝一郎さんが、言った。
「何で、言うことを聞かなかったんだ」
その目は、私の知っている輝一郎さんの目ではなかった。
ジメジメと纏わりついてくるような、気持ちの悪い視線が、私の体を這っていた。
逃げなければ。今すぐに。なのに、体が動いてくれない。
輝一郎さんの手がスーツの中に隠れた。次に手を出した時には、ナイフを手にしていた。
日差しを反射しているそれは、緑玉のように輝いた。
「叶羽さん!」
ゲスト席から悲鳴が上がり、私と輝一郎さんを中心に、穴が空いたように人が退いた。
その中で、由貴だけが私の方に向かって来る。
輝一郎さんが、ナイフを持つ手に力を込めたのがわかった。
踵を返して、走らなければ。あの時みたいに。
なのに、輝一郎さんの視線に捕らわれたように動かない体は、後退ってわずかな距離を取ることしか叶わなかった。
輝一郎さんが、ナイフを持った手を後ろに引いた。
そのまま彼は、後ろを向いた。
ナイフの切っ先が由貴に向く。
由貴は突然の出来事に対応できず、そのままの勢いで輝一郎さんに突っ込んでいく。
輝一郎さんが引いた腕を前に突き出した。
ナイフの先が由貴に刺さる前に、由貴を横から弾き飛ばす力が働いた。そのまま彼は左側――新郎側のゲスト席に、倒れ込んだ。
由貴を弾き出したその影は、由貴の代わりにナイフの先を見る見るうちに、体内に吸い込んだ。
ナイフの柄だけが見えるくらい。深く、深く。
彼の立派な濃紺のスーツが、赤く染まっていく。
「またお前か……!」
人を刺したことも気にせず、輝一郎さんは言葉を吐いた。
由貴よりも細くて背の低い彼は、その状況でいったいどこから声を出しているのかと思うくらい、叫んだ。
「由貴くん! 叶羽を連れて逃げて!」
守がこんなに大きな声を出しているところを、私は初めて見た。
由貴は幸い掠り傷で済んだようで、訳がわからないまま、それでも私の方へと向かった。
「邪魔をするな!」
輝一郎さんが、また声を荒げる。
二人で何かを掴み、取り合っているように見える。ナイフだ。輝一郎さんはナイフを抜き、再び由貴を刺そうとしているのだろう。
守は足を上げて、勢いよく輝一郎さんの足を踏んだ。
輝一郎さんは手を離して、呻き声を上げながら、その場に崩れ落ちる。
その間に守はナイフが刺さったままの腹部を抑えながら、私と輝一郎さんとを隔てるように、立ち位置を変えた。
私達から距離を取っていたはずのゲストの中から、こちらへ向かう人影が、視界の端に映った。
由貴が私のもとへ来る。
「行きましょう」
由貴が私の腕を引く。
それと同時に、崩れ落ちる守の姿が目に入った。
痛みに耐えるように、背を丸めて、その場に倒れ込んだ。
「守!」
私は由貴の手を振り払って、彼のもとへ駆けだした。
彼が押さえていた傷口を、同じように手で押さえた。
先程揉み合っていた所為か、出血が多い。傷口を伝い、地面を伝い、私の手とドレスも赤くなっていく。
「由貴くんと逃げて! 叶羽!」
彼の呼びかけに、私は首を横に振った。
純白のウエディングドレスが、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
溢れ出す鮮血は止まるところを知らず、傷口を押さえる手を擦り抜けていく。
「叶羽……!」
彼の手が、私の頬に触れる。私はその手を握り返す。
同じように彼の名前を呼びたいのに、唇が震えて言葉が出てこない。
ようやく周囲のゲスト達も現実の状況に頭が追い付いたのか、ざわめきと悲鳴が入り混じり、場は混乱に満ちていく。
西洋建築の館。鳥のさえずりと秋の優しい木漏れ日が差し込む、穏やかな森。季節の花と五メートルほどの池がある庭。建物の正面には舗装された道と広々とした芝生のみが広がっている。豪奢すぎない、どこか素朴さがある、閑静な館。
この場に相応しくない喧騒が広がる。
その音は鼓膜には届いているし、私も同じように叫びたかった。
なのに、何一つ言葉にならない。わずかな空気すら震わせることができない。
「叶羽…………!」
もう一度、彼が私の名前を呼んだ。
その瞳が、まっすぐに、切実に、私を見つめている。
いつ溢れ出したのか、彼の目から涙が零れていた。その涙を拭ってあげたいのに、彼の手を握った手は硬直したように動かない。傷口を押さえる手からは未だに生温かいものを感じて、離すことはできなかった。
救急車を、警察を、捕らえろ……。そんな言葉が聞こえてくる。
周りが騒がしくなるにつれて、彼の体が冷えていった。命の炎が消えていくような気がした。
駄目だ。このままでは駄目だ。
何か。何か言わなければ。
彼に聞かなくては――。
「どう、して……」
どうして、こんなこと。
彼はまた、一筋の涙を流した。
そして、精一杯微笑んだ表情をした。
「どうして……、私を守ったりなんかしたの……」
こんな命懸けで、十五年前に別れた人を、その結婚相手を、守る必要、ありはしない。
なのに、なぜ、こんなことを……。
彼は苦しそうに息を吐きながら、小さく笑った。
「叶羽を守るなんて、大層なこと……。してないし、するつもりもない……」
吐き出された声は、先程とは打って変わって、弱々しかった。
「ただ……」
彼の指先が、どんどん冷たくなっていく。
それでも彼は、微笑みを絶やさない。
「叶羽の幸せを、守りたかっただけだよ」
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