緑玉で君を想い眠る㉔
7
誘拐事件から十五年の時を経て、再び事件は起ころうとしていた。
脅迫状を読んで、違和感を覚えた。
その違和感の正体に、すぐには気付けなかった。
だが、あの人が、また何か企んでいることだけはわかった。
家に帰ると、扉が大きな音を立てて閉まった。乱暴に閉めたのは自分だとも気付かなかった。
「ちょっと! 何よ!」
リビングにいたあの人はそのまままっすぐに向かう僕に、珍しく動揺していた。
「次は叶羽に何をする気だ」
答えが返って来ない。
「次は叶羽に何をする気なんだ!」
腕を振り払われた。
「ハァッ……、何よ、殺す気⁉」
気付けば壁を背にしてその人は立っていた。服の襟元を正している。
「……悪かった」
それを聞いて、その人は鼻で笑った。
「なぁに? 取り乱しちゃって」
見慣れた余裕の笑みを見たかと思えば、スッと表情が消えた。
「叶羽から何言われたの」
「それは君がよくわかってるんじゃないのか」
口元を歪めて、静かに笑い始めた。乾いた笑い声が、室内に響き渡る。
「いつもいつも、叶羽叶羽叶羽叶羽。貴方があたしに話がある時は、叶羽のことばっかり!」
「……は?」
「気付いてる? 付き合い始めて結婚して今日まで、貴方はあたしを名前は愚か、苗字ですら呼んだことが無かった!」
誰が、呼びたいと思うのだろうか。
「あたしが貴方の名前を呼ばなくなっても、どうでもいいんでしょ? 叶羽じゃないから!」
「……」
「兄達よりも成績が良くても、期待されるのは孫の顔! それとなく兄達と同じように親の会社へ就職する話をしても、そんなことよりも孫の顔! 父と兄達からはいつも『可愛く生まれてきてよかったな。相手には困らんだろう』って。その『可愛い』って誰のためのものなの⁉ あたしを抱く男のため? ふざけないで! あたしはあたしのものよ! 考えたことないでしょ? ずっとあたし自身ではなくて結婚相手のために育てられた人の気持ちなんて!」
「……『できないけど、それならできることをやるまで』なんだろう?」
「じゃあ聞くけど、自立しようとして桜ノ宮以外の大学に行ったり、卒業と同時に親と絶縁した人を、貴方の親は、霧島家の人は、受け入れてくれた?」
「……」
「無理でしょう⁉ 自分達だけで決められる世界じゃないし、人間性よりもまず家柄と格の世界だもの」
「……なら、僕を相手にしなかったらよかったじゃないか」
また乾いた笑い声が響いた。顔が下げられ、それに合わせて髪がダラリと垂れている。
「貴方は叶羽のためにあたしといるんだものね」
顔を上げたその人は、目に涙を溜めていた。
「あたしが、叶羽に嫌がらせするためだけに、好きでもない人と付き合って、結婚したと思ってた?」
「……え……?」
「あたしの使命が子供を生むことだっていうなら、せめてその相手は自分の好きな人がよかっただけよ」
口角は歪に上がっている。無理矢理に笑おうとした顔は、その人の華やかな顔立ちにそぐわない、歪んだ形をしていた。
その人は一度背を向け、上を向いた。決して手は目元に当てなかった。深呼吸するように、肩が何度か上下した。
「本当に、最高の悪夢だわ」
そう呟く声が聞こえた。
『できないけど、それならできることをやるまで』
いつの日か言われた言葉を自分でなぞって、何かが深くに、落ちてきた。
あの時……目の前にいるこの人に選択を迫られた時、自分にできる最良の選択は、これだと思った。
きっと、これが最良だと思いたかったのだ。
何もできない無力な自分とまた向き合ったり、大切な人を傷付けられて自分が傷付くことから、無意識のうちに目を逸らしたかったんだ。
自分にできる最良の選択がこれなのだと信じて、自分は変わらないでいいのだと――今の自分のまま止まっていていいのだという理由にしていた。
あの事件の後、叶羽に玉井夢香が犯人と繋がっているのだと知らせて、一緒に犯人は誰なのかと問い詰めて、犯人を見つけ出し、二人であの、自覚も無く他者を傷付けている周囲の言葉の数々を、それでも乗り越えようとするべきだった。
僕は、諦めたんだ。
彼女と一緒にいる未来を。一緒に居ようとする現在を。
僕は、逃げたんだ。
また彼女を傷付けてしまうかもしれない無力な自分から。
僕は、安心したかったんだ。
自己犠牲を払って、彼女を守った気になりたくて。
もしかしたら、僕と、この人は、根本的な部分は、似ていたのかもしれない。
必死に現実に足掻こうとして――足掻いていた気になっていただけ。
もう一度振り向いた時には、いつもの燦々と輝く目があった。
「でも、あたしは叶羽じゃないから。それは無理だって、この生活でよくわかったから。いいのよ別に。貴方の世界には叶羽しかいないんだもの。そんな風に貴方を壊したのはあたしだもの。貴方にとって世界一大切な人が叶羽で、世界一憎い相手があたしなら、もうそれでいいわ。貴方にとって叶羽とあたしは、同じ感情のベクトルにいるようなものじゃない」
「……狂ってる」
「貴方に言われたくないわ。まぁでも、そこは夫婦なんじゃない?」
小馬鹿にするような……、否、憐れむような目で、小さく微笑んでいた。
約十五年、僕達は一緒に居るだけで傷付け合っている関係だったのだと、ようやく理解した。
そしてこれが、彼女との最後の会話になった。
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