緑玉で君を想い眠る㉙
4
家に帰ると、叶羽さんはソファーに腰掛けて、そのまま背もたれにもたれかかった。布で体は滑って、深く腰掛ける形になる。ぐでんとダルそうにして目を閉じている。
退院してから、外出した後は、こうなることが多い。気分の浮き沈みは減ってきているものの、まだ完全に回復したわけではないのだろう。
「……叶羽さーん、よかったんですか? あんなこと言って……」
お疲れの時に聞くのも無神経だろうか。
けれどもし後悔しているなら、早めに行動した方がいい。担当を変更するという話も、代わりにボクが白紙に戻すよう話すことだってできる。もう一度話したいことがあれば、改めてプライベートで連絡を取ってもいい。
彼女はあれで全てを終わりにしたのだろうけど、あんな終わり方で、本当によかったのだろうか。
「……よかったの。むしろ、どうしてもっと早くに、こう言わないといけないって、気付けなかったんだろう」
彼女は目を瞑ったまま言った。
そしてゆっくりと目を開けた。宙を見たまま、話し出す。
「……私はね、守に、私を理由に、自分の人生を壊してほしくなかったの」
彼の言動は総て叶羽さんのためだった。
叶羽さんと別れたのも、結婚したのも、刺されたのも…………。
知らないだけで、まだ他にも、自己犠牲をしてきたのかもしれない。一切の躊躇いも無く。
「守の幸せを願ってる人は、存るんだよ。彼のお父さんもお母さんもお兄さんも、蓮社長や紗羅さんだって。私が知らないだけで、彼を大切に想ってる人は、他にも存る」
もしかしたら、あの担当医も、プライベートで親しくしていたのかもしれない。互いに名前で呼びあっていたのを思い出して、ふとそう思った。
「だから彼は、人生や命を懸けたりして、私の幸せを守ろうとする必要なんか無いの。彼は彼の幸せを、守ろうとしなくちゃいけないの」
「……守さんの幸せが、叶羽さんと一緒にいることだったり、叶羽さんに関することだったら、どうするんですか?」
――輝一郎さんみたいに。
「私はあなたの加護は要らない」
彼女の目が、こちらを向いた。
「今度ははっきり、そう言う」
眠そうにしていたはずなのに、しっかりとした意志を感じた。
彼女は一度目を伏せる。
「私の人生は私の人生で、守の人生は守の人生なの」
少し間を置いて「勿論、由貴の人生は由貴の人生だよ」と付け加えた。
「私達ね、事件の後、自然消滅して別れたの。親の反対があったから。中等部の時だったから……親に反対されたら、言い返せない。でも、大切な人を悪く言われたまま言い返さないで、言われるがままに離れていったのは、事実なの。桜ノ宮の中等部……寮生活なんだから、黙ってれば内緒で付き合い続けることはできた。お互いが関係無い人達に傷付けられてても、それを理由に距離を置く必要も無かった。
でも私達は、二人で乗り越える方法を、考えられなかったし考えようとしなかった。
自分の所為で大切な人を傷付けた罪悪感から逃げたくて、手を離すことでしか、相手の幸せを願い続けられなかった。そういう関係だったの。
その時点で、いつかは、別れる日が来てた」
伏せられた目からは、そこにどんな感情が秘められているのかは、読み取れなかった。
「無責任だし、私こそ自分勝手に価値観を押し付けてるだけなんだろうけど。でもね、今度こそ守も、自分自身のために生きてほしいの。傲慢に、自分の人生を。
その先で、過ちを犯しても手を離さないでいられる相手がいたのなら、その人と、どんな困難でも乗り越えていくべきだと思う。今度こそ、手を離さないで、どこまでも、遠くまで。
私にとっては、それが由貴だった。『桜ノ宮に来てくれたら付き合う』だなんて。傲慢にもほどがある。でも、そうしてでも、離れたくなかった。由貴はそれに、応えてくれた」
彼女は天井を仰ぎ見た。
「……私ね、凄く、たくさんの人に愛されてきたんだなって、自惚れではなく感じるよ。恵まれてると思うし、本当に、幸せな日々だった。それは、変わらない。
でも、それがずっと続いていくわけじゃない。変わっていくの。形を変えていくの。
いつまでも過去に浸って目を瞑っていたら、それに気付けない。刮目しないと」
言葉に反して、眠そうに瞬きをしていた。
「……少し、寝させて」
体を少しずらして、瞼を閉じた。
「はい、休んでください」
一定のリズムで呼吸が聞こえる。ボクの言葉は、届いていただろうか。
告白した時に言われた言葉と、ボクを好きになった理由を、思い出していた。
『私の愛は希薄だから、寂しい思いをさせるかもしれない。けど、もし追いかけてくれるなら、一緒に歩んでくれるなら、絶対に、手を離さない』
『絶対に私の手を離さないで、握り返してくれるところ』
あの時から、叶羽さんは、守さんではなくボクを選んでくれていたのだ。
なぜ、疑ったりしてしまったのだろう。
叶羽さんが守さんを想っていたのは、ただ、彼の幸せを願っていたからだ。
無責任な願いでも、自分とは掴めなかったその安寧を、十五年の時を経て手に入れられているのか、気に掛かっていただけだ。
それなのに、ボクは……。
子供に愛情を注げない親がいる一方で、過度の愛情を注いでいる親がいる可能性にも、思い至らなかった。
愛していたら、何をしてもいいわけではない。
人を傷付けるのも、己を犠牲にするのも、愛を理由にしてはいけない。
それなのに、ボクは……。
何が、「自分の存在を深く刻み込むため」だ。こんな発想をするボクの方が、十分に危険人物ではないか。
それに……あの時、あんなに必死で叶羽さんを探していた人が、犯人であるわけがなかった。
ボクが叶羽さんと初めて会ったのは高校生の時だけど、ボクが叶羽さんを初めて見たのは、小学生の時だ。
どうして、思い出せなかったのだろう。
鎌倉の街の中で独り、息を乱して、不安でいっぱいで、なのに誰かに頼ろうとせずにいた、守さんを。
子供のボクに話を聞くのに、わざわざしゃがんでくれて、一緒に探そうか言うおじいちゃんとおばあちゃんの申し出も、ボク達のために断って、一人で抱えてしまうような、あの人を。
あの時ボク達が一緒に探していたら、彼の心の負担は減っていたのではないだろうか。
それなのに、ボクは……。
病院で彼を引き留めたのは、後ろめたさからだ。
「婚約者」なんて肩書を軽々飛び越えるだけの心の繋がりが、二人にはあった。
理屈だとか論理だとかで説明できなくても、心の傷という、他人には安易に触れることができない奥底の部分で、きっと二人は繋がっていた。
このまま叶羽さんと一緒に生きることを他の誰かに譲るのは、簡単だ。
でも、彼女が、ボクが過ちを犯しても手を離さないでいてくれるなら、ボクだって、その手を離したくない。いや、多分、小さな過ちは、既にたくさん犯してしまっている。それでも彼女は、ボクと生きることを選んだ。
ボクは決して、叶羽さんの傲慢に付き合って同じ道を辿ったわけではない。
ボクが傲慢に、叶羽さんと一緒に居ることを望んだから、今ここに居る。
これからも、それが赦されるなら――。
「風邪引いちゃいますよ」
小声で呼び掛けてみるが、反応がない。
ブランケットを広げて、彼女の体にそっとかけた。
その隣に並んで、彼女の肩に手を置いて、寝かしつけるように、一定の感覚で軽くポンポン叩く。
彼女は今、過去を想い眠りについているのか、未来を想い眠りについているのか。
その瞼の裏に、誰を見て、何を想っているのだろう。
何でもいい。
もしかしたらこの寝顔を壊していたのは、ボクなのかもしれないのだから。
ボクが、彼女を刺していた可能性だってある。何をおもっているのかわからない彼女に、ボクという存在を刻み込むために。叶羽さんを愛しているからという理由で。
手のひらに当たるブランケットの柔らかさが、心地いい。
ブランケット越しに、彼女の躰温が伝わってくる。
優しい吐息が、眠気を誘う。
瞬きの回数が多くなってきたのがわかる。
瞼が重い。視界が狭くなる。
……少しだけ。少しの間だけ……。
目の前が暗くなる。何も見えない。
それでも、目覚めた時には――。
刮目せよ。
愛は、盲目なのだから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?