緑玉で君を想い眠る㉖
六話:目覚めた時に、
1
「馬鹿なこと言わないで! そんなことのために……!」
二人が何を話しているのか、ボクには聞こえなかった。叶羽さんはボクに背を向ける形になっているし、守さんは大怪我を負っている。でも、叶羽さんのその叫び声だけは聞こえた。
「安静にして! 動かないで!」
何を思ったのか、守さんは立ち上がろうと、体勢を変えていた。左腹部のナイフが刺さっている辺りを押さえて、そのままふらつきながら、ゆっくり立ち上がる、反射的に彼のもとへ駆けていた。
「ちょっと、守さん!」
「触らないで!」
ボクとは反対側へ、少し体をずらした。
「ごめんね……。ただ……、君の服まで、汚したくないんだ」
見ると、彼の手は真っ赤に染まっていた。スーツも傷口を中心に血で染まっている。
「あと……、僕、こんな手で、彼女の左頬触っちゃったから……。怪我の、フラッシュバックとか、起きたら……、傍で、支えてあげて」
途切れ途切れの声で、静かに言った。
少し振り向くと、その場に座り込んだままの叶羽さんがいた。手、ドレスの袖口、スカート部分、その他に、左頬を真っ赤にしていた。自分では気付いていないのか、両目からボロボロと涙を流している。泣いている所為なのか、この状況の所為なのか、彼女の息も乱れていた。
彼はきっと、泣いている叶羽さんの涙を拭いたかったんだ。
「離せ!」
輝一郎さんの声が聞こえて、ハッとした。
声の聞こえた方を向くと、後ろ手で拘束された輝一郎さんがいた。蓮センパイが逃げ出さないように手と肩を押さえている。よく見ると、蓮センパイのネクタイが外れていた。咄嗟にネクタイで拘束したのだろう。今度はこの人が輝一郎さんを刺してしまうのではないかという目で、「おとなしくしてろ!」と言ってた。
「叶羽ちゃんはわたしの娘だ!」
「娘同然に、育てたからって……、彼女の人生を、束縛する権利は、無い」
「わたしの娘なんだ! これ以上奪われてたまるか!」
「……え……?」
守さんの言葉に、輝一郎さんは反論した。混乱状態でも、その雲行きが怪しくなったと気付いたのか、叶羽さんが小さく呟いた。
「わたしが最初に麻紀子を好きになったんだ! なのに直輝の奴が! だけどなぁ、わたしは直輝の兄だ! 血が繋がっている! だったらつまり、わたしと叶羽ちゃんも血が繋がっている! わたし達は親子だ!」
*
Nameless memory
叶羽と別れて公園に入ったところで、上を向いた。溢れそうになっていた涙を、なんとか抑えようとして。
どうして、本当のことなんか言ってしまったのだろう。
『次は何をする気だ』という守の言葉を聞かせたら、何か期待するような、喜びを含んだ叶羽の顔が見られると想像していた。
その顔が見たかった。
喜ばせたかったわけではない。
婚約者がいるというのに、ずっと前に別れた彼氏から、それも綺麗な別れ方をしていない彼氏から、今でも大切に大切に想われていることを知って、自己愛とか優越感とか、そういう自分勝手な気持ちで満たされている叶羽が見たかった。
そうしたら、この人も所詮人の子で、ヘラヘラ笑いながら知らない間に他人を傷付けている、どこにでもいるただの人間なのだと、わかるから。
なのに。
心配されているのは自分のはずなのに、逆に守を心配するような、そんな目をしていた。
自分以外の人と結婚しているのに、なぜ自分の心配をしているのか、と言いたそうな。
今、本当に、否、自分と別れてから、幸せな人生を歩んできたのか、と言いたそうな。
「……もう、やだ」
あたしでは駄目な理由が、痛いほどよくわかってしまった。
どうして、こうなるまで気付けなかったのだろう。
そりゃあんな性格なら、十五年も前に別れた彼氏からも、近々結婚する婚約者からも、大切にされるはずだ。
あたしと付き合ってどんどん心を失くしていくように機械的になってしまった彼を、少しでも元に戻したくて、叶羽を話題にしたり、接近したりした。
でも、そうすると、彼は元に戻るというより、失くしていた感情を怒りという形で蘇らせる。
叶羽が関係していたら、あたしに無関心な彼も、怒りという形でなら、視界に映してくれた。
それでいいと思ってしまった。
だから、あたしは叶羽に危害を加えようとしたし、実際に精神面に危害を加えてきた。
本当はただ、叶羽を想ってでもいいから、彼に少しでも笑顔になってほしかっただけなのに。
涙も、瞬きした瞬間に落ちてしまった。
涙の跡なんて、残して帰りたくない。
泣いたってどうにもならない。
喚いたってどうにもならない。
これまでの人生で、十分に、嫌というほど、わかっていたはずなのに。
ハンカチで目元を拭いた。冷たい風を吸って、呼吸を整える。
スマホで時間と新着メッセージが来ていないか確認する。約束の時間まで、まだ数分ある。奴がくる前に化粧が崩れていないか確認した。大丈夫だ。目が少し泣いた後みたいになっているけれど、暗いから問題ないだろう。それに、オジサンがそんなことに気付くとも思えない。
「遅くなってすまないね」
待ち合わせしていた人物が、やってきた。
オシャレとは言えない無難な服装。体格がいいのか中年太りなのかよくわからない体型。気前の良さそうな、けれど平凡で安っぽい笑みを浮かべたオジサン。
叶羽にとっては「伯父さん」だから、日本語は紛らわしい。
初めてこの人を見たのは、SNS上だった。
実名登録が基本のSNSで、誰もが気軽にやるというよりは、ビジネス目的でアカウントを持っているユーザーが多いと聞いた。
女性はどのくらい働いているのだろう。子育てとの両立はどうしているのだろう。そんな好奇心から覗いていた。親に聞いても、わかるわけがなかったから。
令和になって九年も経つというのに、玉井家は時代錯誤だ。
男が働いて女が家事育児をする。共働きなんてするから、家事育児の分担における不和が生じる。昔のようにきちんと性別の役割を果たす方が、家庭も社会も上手く回る。本気でそう信じている。社会になんて出たことがない母は、それに賛成している。家政婦と保育士と介護士と娼婦の役割を担わされているも同然なのに。彼女にとっては、知らない世界に飛び込むより、慣れ親しんだ世界で生きる方が、楽なのだろう。何も気にした様子もなく、あたしに家事だけを徹底的に教え込んだ。現代では、矢切製薬では社長の妻の矢切紗羅が、篁商事でも社長の妻の篁世梛が、老舗和菓子屋の『東宮』では東宮芽郁が、シロノ化粧品だって、森城叶羽が、活躍しているというのに。
そのSNSでは、企業の公式アカウントから、キャンパスライフの様子を書き込む大学生まで、いろいろなアカウントがあった。
個人アカウントはどれも「頑張る自分」アピールで、鼻で笑ってしまうこともよくあった。結局、SNSを通して表面上のそういう自分を見てもらいたいだけなのだと、感じ取ってしまったから。
毎日様々なアカウントを見て回って、ふと目に留まったのが、叶羽の写真だった。
ユーザー名は、森城輝一郎。
投稿内容は、娘の様子について。
親が成金だと、インターネット上にこんな馬鹿な投稿をしてしまうのか。と憐れに思った。
桜ノ宮では、身代金目的の事件や仕事上の怨恨による報復などに子供を巻き込まないよう、親も注意を払っている。インターネット上に子供の情報を載せないのは常識だ。子供達自身も、SNSの使用には注意をしているというのに。
可哀想に。そう思いながら、そのアカウントの投稿を見ていた。が、ふと疑問に思った。
城之化粧品の社長の名前は、森城直輝ではなかっただろうか。
では、この輝一郎という人物は誰なのだろう。
写真に写る叶羽は、男性に懐いているように見える。どことなく顔も似ている気がする。伯父、もしくは、叔父? だったら納得できる。しかし、「娘」とは……。
そのアカウントを観察し続けていると、中等部に上がってから、奇妙な投稿内容が激増した。
娘に会えない。寮生活だなんて聞いていない。アイツはわたしから娘を取り上げた。娘に会いたい。
一見すると、子を溺愛する親のお馬鹿な投稿だ。見方によっては逆に微笑ましいものもあった。
しかし、娘ではない相手を娘と呼んでいるこの人は、明らかにおかしかった。
同時に、叶羽に対する執着心と、おぞましいほど粘着質な性格が窺えた。
それを利用して、叶羽にちょっと痛い目を見せてやりたかった――。
「遅いわよ。で、用意できたの?」
「すまないが、これだけしか用意できないんだ」
渡された封筒は、指定した額を明らかに下回る厚さだった。
「ふざけてんの?」
「これが精一杯なんだ」
「残りはいつまでに用意できるの?」
「頼む、これでなんとかしてくれ」
「叶羽にバラしますよ? 両親を殺したのは貴方だ、って」
『邪魔者は消したから、もう協力は要らない』と連絡が来た時、初めてこの人を知った時以上のおぞましさを感じた。
「それだけはやめてくれ」
「普通しませんもんね。好きだった女を取り返すために事業で騙して会社潰して。自分についてこいって言っても振り向いてもらえなかったから殺して、弟も殺すなんて」
「違う! 鎌倉には住めなくなってしまったけど、別の場所でわたしと麻紀子と叶羽ちゃんと三人で暮らそうと言ったのに、麻紀子が包丁を向けてくるから……! 直輝がそんな時に戻って来たりするから、仕方がなかったんだ! それに、麻紀子と最初に出会ったのはわたしだ! 麻紀子はわたしと結婚するはずだったんだ!」
この人、相当狂ってる。
いや、あたしもか。
「叶羽に脅迫状も出してますよね?」
そう言うと、彼は押し黙った。
本当に、キモい伯父さんが書いた文章だった。
「叶羽チャン、大好きな伯父さんがそんなことしてたって知ったら、どう思いますかね?」
この人と話していると、「叶羽ちゃん」という呼び方が自然と移ってしまう。その度に、自分の中で何かが歪んでいく。
目の前の人は、青い顔をして口をわなわなと震わせていた。
これだけ言えば、次会う時には今日と同じくらいか、少しは多い額が手に入るだろうか。
本当は叶羽を使って、巻き上げられるだけ巻き上げて、守と離婚した後に、玉井家からも出ていこうと思っていたのだけれど……。
所詮は庶民が用意した金額だ。暮らしていけるだけの額が揃うとは期待できない。
ならば、出戻り娘だとかお荷物だとか言われるのを覚悟の上で、玉井家に戻って、コネでも何でもいいから入社させてもらおう。
他の社員から馬鹿にするように箱入り娘だとか言われても構わない。いつか絶対、兄達を追い越してやる。あたしのことを散々、暗に家政婦呼ばわりした二人の兄を。彼等に大した才は無いのだから。
できないけど、それならできることをやるまで。そうやって、生きてきたのだから。
いや、これからは、できないなら、自分で選択肢を作って増やしてやる。
「それだけはやめてくれ!」
膝をついて、手も地面につき始めた。
玉井家に戻るなら、この人からお金をもらう意味も、特にない。
受け取ってしまった封筒は、どうしようか。
あたしよりもうんと低い位置に視線がある彼を見て、ぼんやりと考えた。
「叶羽ちゃんにだけは! それだけは……!」
叶羽……。
「叶羽ちゃんには言わないでくれ!」
どうしたらあたしは、あのコみたいになれたのだろうか。
「頼む……!」
もらったお金は、叶羽に祝儀として渡そうか。
彼女のことだ。こんな額を受け取ったら、一人になる伯父を心配して、はたまたこれまでの義眼代として、彼に渡しでもするだろう。
どうやったら彼女がこの額を受け取るかが問題でもあるが。とにかく受け取らせよう。
「ま、叶羽と上手くやっていくために、せいぜい頑張って」
彼女には絶対に、真実がバレないように。
踵を返して歩きだした。
「本当に、人生って悪夢だわ」
本当の悪夢の方がまだマシだ。所詮、夢なのだから。
だけど現実は違う。
どうしようもない、本当の出来事なのだから。
叶羽があの伯父のやったことを知った時、彼女はどうするのだろう。
それでも彼女は、許してしまうのだろうか。
不意に、目の前を上から下に、何かが通り過ぎた。そう思った次の瞬間、首が締まり、息ができなくなった。
助けを呼ぼうにも、上手く声が出ないし、息が吸えない。
無意識のうちに、首を締める物を緩めようと、指で引っ掻き回した。結婚指輪と婚約指輪を合わせた時に合うように、ベージュのシンプルなネイルに変えてもらったばかりで、傷付けないようにしていたのも忘れて。
頭に血が昇ったように、意識がぼんやりとしてきた。なのに「叶羽ちゃんには言うな」という声は聞こえる。
叶羽はいいな。たくさんの人から、名前を呼んでもらえて。
そうだ。離婚の慰謝料は、守にあたしの名前を呼んでもらおう。これで最後なのだから。
その言葉があれば、離婚した後は何の意味も無くなる左手薬指の二本の指輪を寝る前に見て、幸せな夢が見られそうだ。
夢の中でくらい、幸せなものを見せてよ。
じゃないと、名前に見合わないでしょ。
明日、離婚届をもらって来よう。
守には叶羽の結婚式は欠席させて、祝儀だけ渡してとっとと帰ろう。叶羽に絡むより、さっさと玉井家に戻って、生き恥晒してすっきりしよう。
首に絡まっていた物に挟まっていた左手の薬指が抜けて、手がダラリと落ちた。
守、最愛の人との未来を奪って、ごめんね。
でも、ねぇ、守。
やっぱり、貴方は覚えていないわよね?
あたし、叶羽よりも先に貴方と出逢ってるの。
貴方は「女はすぐ泣く」とか言ったり、気を引くために悪口を言ったり相手が嫌がるようなことはしなかった。困っていたらそれを嗤うんじゃなくて、待っていてくれたし、なんなら手を引いてくれさえした。絶対に置いていったりしなかった。
あたしは幼稚舎で貴方に出逢って以来、上級生との合同授業を楽しみにしていたの。班分けがある時は貴方と同じ班になれるのを期待していた。
そうやって、機会を待つだけじゃなくて、もっと自分から、何も無くても、「貴女に会いたい」という理由だけで、貴女のもとへ行けばよかったのかしら。
そしたら、いつの間にか貴方の隣に居た叶羽みたいに、そこには、あたしがいたのかしら。
一度でいいから、叶羽が居る貴方の隣に、あたしは居たかった。
でも、手段を、間違えたのね。何もかも。
遅すぎるけど、貴方はもう自由になって。
無責任すぎるけど、これから幸せになって。
瞼が落ちると同時に、思考が暗転した。
*
「もう黙れよ!」
守さんが再び激昂した。
輝一郎さんは支離滅裂に話し始めた。
叶羽さんが自分の娘だという理由や、彼女の両親を殺したこと、桜ノ宮の高等部から特待生枠での合格通知が届いたけど寮生活をさせたくなくてそれを燃やしたこと、少しでも長く一緒に居られるように大学では一人暮らしを阻止したこと。
「鎌倉に行くって聞いたから、だから先に二人で新しい生活を始めて、麻紀子も呼ぼうとしてたんだ。三人で生活できると思ったら嬉しさのあまり何て説明したらいいかわからなくてね。ちょっと強引に連れていってしまっただけなんだ。お前がもっと早く怪我した叶羽ちゃんを病院に連れていってくれていたら、叶羽ちゃんは左目を失わずに済んだかもしれないのに!」
「黙れって言ってるんだよ!」
両親を殺したという話の途中で苦しそうに過呼吸になった叶羽さんの耳を塞いだけれど、他の話はどこまで聞こえてしまっただろうか。
座っている状態なのに頭から倒れてしまいそうな彼女を、目も塞ぐように正面から支えながら、そう思った。
「わたしが一番叶羽ちゃんと一緒に過ごしきたし育ててきた! わたしは叶羽ちゃんの左目で、誰よりも叶羽ちゃん愛している!」
大きな舌打ちの音が聞こえた。ボクは背を向ける形になっているから見えないが、恐らく蓮センパイだ。彼の舌打ちは、綺麗でよく響く。喜怒哀楽の感情がわかりやすい。
一瞬の静寂が訪れた。
「オイッ! 何してんだよ!」
蓮センパイの尋常じゃない声が聞こえた。何事かと思って振り向く。
守さんが、覚束ない足取りで輝一郎さんに近付いていた。輝一郎さんの目の前で立ち止まり、彼と目線を合わせるように、ゆっくりとしゃがんだ。
「……叶羽を苦しめてるって、気付かないのかい?」
その言葉を聞いて、輝一郎さんがゆっくりとこちらに視線を向けた。その眼差しは、異様にギラギラしていた。
反射的に、彼女の耳を抑えていた両手に力を込めた。
「叶羽ちゃん、わたしと一緒に暮らしてた時、幸せだっただろう? 直輝と暮らしてた時よりも、幸せだっただろう?」
「やめてください……!」
ボクがその言葉を言うのと同時に、守さんは右手で輝一郎さんの胸倉を掴んでいた。
輝一郎さんが緊張した眼差しで彼を見る。
「お前が思う幸せを、叶羽に押し付けるな」
再びゆっくりと、こちらを見る。
ハッと目を丸くしていた。
ボクを見て、ではない。それよりも、もう少し低い位置に、視線がある。
同じように視線を下げる。
叶羽さんが、涙を流したまま、彼を見ていた。
その眼差しは、怒りとも哀しみとも、憐れみとも取れた。
輝一郎さんは彼女の目から何を感じ取ったのか、額を地面に当てながら、呻き声を上げた。
遠くから、ようやくサイレンの音が聞こえてきた。
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