【忌憚幻想譚4話】ただそれだけのこと【ホラー短編集】
つぶれたトマトがそこにあるみたいに、なにかが横たわっていた。
目を瞠るとそれが、もともとは自分と同じ姿だったんだとわかった。
とびちった赤い果汁。
実をぶちまけて。
ぼんやり眺めていても不思議と恐怖はわかない。
あるのは、静か過ぎるほどの空間と、凍り付きそうなほど冷静な感情。
やがて眺めていた僕の後ろで、耳をつんざくような高い悲鳴があがった。
それこそ、耳障りなほどの悲鳴だった。
パトカーと救急車がうわんうわんと集まってくるころには、あっというまに人だかりができあがっていた。
気味悪がって、トマトの周りは切り取られたみたいに誰もいない。
僕は最前列でやっぱりそれを見ていた。
やがてテープが張られ、目隠しがなされて、僕らは遠くへ遠くへと押しやられた。
でも、隙間から見える。見えている。
たくさんのブルーの服がそれを囲み始めて、道路に線を引いたりAとかBっていう札を立てたりしている。
少し離れたところで警察と話をしていた太ったおばさんが、僕を指差していた。
ガマガエルみたいなおばさんだった。
どうやら、あの人が耳障りな悲鳴の元らしいとわかる。
警察は僕のところへ来ると、いくつか質問をしてきた。
落ちてくるのを見たのか。
誰かいなかったか。
君は何をしていたのか。
淡々と短く答えた僕をいたわるように見詰めて、また話を聞くことになるかもしれない。ショックだったろうねと、名前と住所を聞いて戻っていった。
それだけ僕が放心状態にでも見えたんだろう。
やがてどういうわけかマスコミも駆けつけてきた。
いったいどうやって情報を聞きつけるのか。
うるさい蟲がたかるように数を増す。
また、さっきのガマガエルが話を聞かれていた。
目立つことが好きなのかもしれなかった。
その醜い姿を晒すのに抵抗はないんだろうか。
そのころにはトマトは運ばれていて、そこには線と酸化して赤黒くなった血がべったりと残ってるだけだったけど、離れすぎてそれもよく見えなくなっていた。
運ばれたのは、トマトは、女の子だった。
女の子だったものだった。
変な方向に曲がった腕と足。
顔なんか半分はぐしゃりとゆがんで、髪の毛は血で濡れて残った顔も隠していたのを覚えている。
とびちった中身と一緒にバックの中身もちらばっていて、それも回収されたみたいだった。
僕はそれでも、女の子のいた場所を見ていた。
ずっと、見ていた。
無表情の「それ」が見えていたから。
たたずむ「それ」が見えていたから。
話はできないのはわかっている。
でも、「それ」が見る方向にたたずむ巨大なマンションと、その無表情の眼が睨め付ける場所――管理人室が僕には見て取れた。
彼女はかわいらしい顔立ちだった。
すっと細くて小さな顔に、茶色い髪がかかってとても明るそうだった。
だけど、その表情はもう色を失って、マネキンのようだ。
でも僕は知っている。
彼女はマネキンなどではない。
彼女がこのあとどうなるのかも、僕は知っている。
彼女は、やがてゆっくりと歩みはじめた。
重い足取りで、ゆっくりと、じっとりと、歩んでいく。
音はない。
空気も動いていないだろう。
手はだらんとたれたままで、それでもやっぱり表情はないままで。
僕は知っている。
彼女は連れにいくのだ。
自分の命を絶ったものを。
僕にできることは何も無い。
ただ、見てること以外は。
彼女はそれを連れるとき、狂ったように笑うのだ。
裂けんばかりに口の端をつりあげて、こぼれんばかりに眼を見開いて。
色を失った彼女の表情に、最期に灯る色がそれだ。
狂喜。狂気の色。
彼女のかわいらしい表情を見れるのはゲンジツのシャシンくらいだろう。
死した魂は、ごく稀に、本当に稀に、狂喜に震える。
自分の命を絶ったものに、最高の恐怖と最高の苦痛を手渡すときの、狂喜に震えるのだ。
その姿を僕は見ることができる。
ただ、それだけのこと。