他人の評価と「ちりめんジワ」
「評価は他人がする」という言葉、新社会人として就職した会社で叩き込まれた訓示だ。10年以上経った今も、わたしの中でこの感覚はけっこう大切にしている。
当人の腹のうちとか本質とかは問題でなく、「評価」という意味では…それが組織内だろうと友人関係だろうと、あらゆる人間関係において、「他人からどう見えているか」が、結局のところ(社会における)その人の全てなのだ。
良くも悪くも誤解されることはあるけど、人からそう見られているのであれば当人の一面、事実だ。逆に、周囲からの評価が自己認識に繋がることもある。こちらも、良くも悪くも。
そういう意味で、自分のことを最も知らないのは、実は自分自身だったりもする。
それは見た目においても同様だ。
上述の会社では、自分が人前で喋る姿を映像で確認する必要があったのでしばしばそうやって「自己研究」をした訳だが、「おいおいあたしって喋る時こんな口の動きするの、こんな表情するの」と、己の姿に萎えることの連続だった。
鏡に映る自分を見るときと、日常的に見せる表情はまるで違う。鏡を見る時はいわゆる「キメ顔」なのだ。
女子トイレの手洗い場の鏡の前には、そんな「キメ顔女子」が並ぶ。その面白さに気づいて以来、そんな女性たちの姿を見るのがわたしの密かな楽しみとなった。
つまり、容姿や立ち振る舞いについても、自分のことを一番分かっていないのはやはり自分自身だと思う。
先日、友人宅に遊びに行ったときのこと。
帰り際、玄関で靴を履きながら、
「今日はありがとう!また遊ぼうね」とありったけの笑顔で友人に挨拶した。その瞬間、近くの姿見に自分の顔が映り込んだ。
しわくちゃだった。一度丸めたプリントを開き直したのかと思うくらい、しわくちゃだった。
その顔のまま絶句した。
帰宅後、洗面台に自分の顔を映す。そして、ありったけの笑顔を作る。
やはり、先程のしわくちゃである。
恐ろしい気分になり、いても立ってもいられず、血眼で検索する。
【顔全体、こまかいシワ】
おおよその検討はついた、というか普通に加齢による乾燥ジワで、初期段階と(一応は)見なされているらしい。
当然ながら治るもんではないので、まずは落ち着いて現実を受け入れ、進行を遅らせる努力をするしかない。
ここで、冒頭の「自分のことを一番知らないのは自分」に戻る。
知らんかった。わたしは加齢と共に、こんな皮膚になっていたのか。周囲にはいつも、この顔を見せていたのか。知らんかったのは、わたしだけか…。にこやかな笑顔のつもりが実はしわくちゃオバサンだったなんて…。自分で思っているより、わたしはちゃんと歳をとっていたのだ。
ウェブで皮膚の老化情報を得ながら、続けてわたしに衝撃を与えたのは、この細かいシワにちゃんと名称がついていることである。
人間、スピードや程度に差はあれど、老いは平等。悩みは同じ。加齢により出来る顔の細かいシワに、先人たちが付けた呼び名は
「ちりめんジワ」
ちりめん。風呂敷なんかに使われる、縮みのある織物のことか。お手玉とか和風小物にも使われる布。
あの、シワシワの触り心地が指先に蘇る。
ちりめんジワ。
歌人・俵万智のとある作品が脳裏に浮かぶ。
「春先の、曇りや長雨のことを【花曇り】【菜種梅雨】と呼ぶことを知った。それ以来、憂鬱な天気も、良いものだな、と思えるようになった。豊かな日本語が、そう感じさせてくれるのだ」
おおよそこんな内容、中1国語の教科書掲載の名随筆である。対象の名前を知ることで印象が変わった、ということだ。
「ちりめんジワ」の一件においても、豊かな日本人の感性により、同じ感覚をわたしは抱いた。しかしこちらは、残念ながら、である。「花曇り」や「菜種梅雨」と同じラインにあっても、ベクトルの向きは真逆。
「ちりめんジワ」と呼ぶことにより、より「くしゃくしゃ感」が強調され、広がりを見せている気がする。語感そのものに凹凸を感じる。
そして何より、「わたしの顔には【ちりめんジワ】だらけだ」という認識を持ってしまった。存在が確固たるものとなったのだ。
こうして「老い」を、客観的事実として認定したわたし、そのダメージは絶大である。
以来わたしは人と笑い合うたび、
あぁ今この人にはわたしの「ちりめんジワ」が見えているのだ
と、要らぬことばかり考えてしまう。
自分の目には映らないからこそ、恐ろしさが増す。頬から「くしゃっ…」という音が聞こえる気さえする。
というか、どれだけ自分をかいかぶって生きてきたのか。年相応だろう、何を大騒ぎしているんだ。わたしという人間の歴史を刻んでいるのが、この何千何百の「ちりめんジワ」だ。現実を受け止めよ。
それに正直言って、ひと様からすりゃ他人の顔のシワなんて心底どうでもいい。余程でない限り気にもしないだろう。久々に会った友人ならば、年齢重ねたよなぁ、くらいは感じてくれるのかもしれんが。
というかわたしの場合、他人の評価を気にするあまり、転じてただの自意識過剰なのだ。繰り返すが、人間、実際そこまで他人に興味はない。
「評価は他人がする」という訓示を大切にしている、と書いたが、むしろ縛られているのかもしれない。元々持っていたわたしの気質と相まって、向けられてもいない他人の目と、名詞の語感にがんじがらめになっている自分を、情けなく思う。何というか、小物感。
とはいえ、顔面シワだらけなのは事実だ。
以来わたしは、目の色を変えて肌の保湿をしている。手を出したことのない価格帯のスキンケア用品を、迷わず購入。
「客観視」と「言語化」が、自意識過剰オバサンであるわたしに危機感を与えてくれたのはまぁ良かったということで。
徹底して、老いに抗う構えである。