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妖怪は実在した

「妖怪」とは、日本古来の「八百万の神」的思考が基盤となり、当時解明されていなかった自然現象や不可解な出来事、説明できない存在などを具現化したものらしい。

世の中の不気味・不思議・時には不都合を妖怪の仕業にするのが、かつての人々の納得いくところだったのだろう。

たとえば「河童伝説」とか「かまいたち」とか、調べてみると由来に凄く説得力がある。(河童に関しては胸が痛むが…)

調べるほど、人々の想像力の豊かさに感動する。それが生活に根差した、身近な存在として広く認知されたというのがまたすごい。

そして、人間の持つ本質に、「答えを得たい」という欲求があることも伺える。身の回りのあらゆる現象を、何かしらの形で納得したいのだろう。
探求し続ける生き物なのだ。そこにはまず「想像」があって、その延長線上に科学や論理などがあるのだろう。どれも、答えを見つけるための解決の糸口なのだ。

それを思えば、「妖怪」という文化を非科学的だとか荒唐無稽な大昔の迷信だとかで一蹴するのはナンセンスな気がしてくる。


個人的な妖怪体験(?)を挙げていこう。

わたしが学生の頃の話。寒い冬の夜、まずは毛布、その上に掛け布団を掛けて就寝したはずなのだが、翌朝目を覚ますと、下の毛布だけが裏表逆になっていて驚愕した。掛け布団はそのまま上に乗っている。これをそのまま友人に話すと
「そういう妖怪おるけん?!?!」と真顔で返された。めちゃくちゃ笑った。(恐らく妖怪「枕返し」)

また、かれこれ10年ほど前「妖怪ウォッチ」が子ども達の間で一大ブームとなった時期のこと。やれ宿題を忘れただのやれ遅刻しただの、あらゆる個人的な不届きを「妖怪のせい」だと言い張る児童が続出したとかで、教員の友人が嘆いていた。子どもたちの都合の良い主張も、妖怪の出自を思えばある意味正解なのだ。(どこまで本気で言っているかはさておき。)

長女を育てるようになって、寝入った子どもの重さに驚愕した。こりゃ「子泣き爺」もまじでおるわな、と調べてみたら、この妖怪の由来は不詳な点が多くそれも基本結構物騒な感じだった。見当違いに我が子を妖怪呼ばわりしてしまった。(それも醜悪な老爺)

こうして妖怪たちの特徴をみていくと、それらは「目には見えないが、確かに起きる現象」と「目に見える(または見えた気がする)現象」に分けられることに気がついた。
先述の「かまいたち」「枕返し」は前者、「河童」「子泣き爺」は後者だと思う。「宿題忘れ」は知らん。

子どもの頃見たテレビアニメ日本昔話の、「山姥」の恐怖は凄まじかった。数多の妖怪の中でも桁違いの恐ろしさ、子ども心にはトラウマもんである。そしてこれは、「見える現象」の妖怪化だと確信した。

完全にわたしの想像だが、この山姥伝説はきっと「姥捨」の風習から生まれたのだろう。以下、何の根拠もない個人的推測を述べてみる。

平均寿命も短い時代、劣悪な環境で人が老けるスピードも現代とは段違い。大昔の高齢者のビジュアルは、きっと「老い」の迫力があったろう。認知症の概念もなく、正気を失っていく存在は恐ろしくもあったはず。

棄老の風習はむごい、そして恐ろしい。それが文化だった時代であれ、きっと同じ感覚だろう。ましてや捨てられる当人であれば、認知症でなくとも次第に理性を失ってしまうのが想像に容易い。

加えて、電気のない時代の暗闇は、現代人の想像に及ばない恐怖があったらしい。

そんな価値観、生活を前提としよう。要するに、大昔、陽が沈めば外は真っ暗で、棄てられた末凄いビジュアルの狂気じみた婆ちゃんがけっこう普通に存在していただろう、という前提。

たとえば山や雑木林を進む最中に、棄老の果ての半狂乱、ボロボロの姿の老婆に会ったとしたら。

そりゃ、山姥である。これはもう想像や架空の存在とかではなく、ほんまもんである。生身の人間が、妖怪認定されたに違いない。

(余談だが、絵本によっては、森の中で動物たちと安らかに暮らす、「森のお母さん」的なポジションの婆さんを「やまんば」と称する作品もあるので、人里離れ孤独に暮らす老婆を一括にそう呼ぶ感覚もあったのかも)

こうして文化的な側面も含め考えていくと、人々がその存在を認識しているのであればそれは「いる」と言ってしまえる気がする。
姿形にかかわらず、たとえ見えなくても、または、それが実は「人間そのもの」だとしても。
現象や存在に「妖怪としての」名前を付けた、というべきか。とにかく、迷信や作り話ではない。妖怪というのは、実在したのだ。

…と、ここまでが、風呂上がり、鏡に写った自分を見ての所感だ。鏡の中にいるのは「山姥」である。この衝撃、分かりますか。

顔色は悪く肌もくすみ髪はボサボサ、生気のない顔つき、全体的に重力に逆らえない感じの裸体、もうこれ以上は言わせないでくれ。

暗闇でコレと出くわしたら、そりゃ逃げる。命からがら村に逃げ帰って言うわ、「オラ、山姥に襲われただ!!」って。
当の本人が一瞬ギョッとした程だ、よく見りゃ普通にわたしだった。

ここまでわたしが、かくも熱心に妖怪を語ったきっかけはコレだ。己の姿に妖怪を見いだしたからなのだ。

こりゃすごい、もののけとか妖怪とか、本当におるわ。
確信した。まるで妖怪みたいな姿だなぁ、ではない。わたしが妖怪なのだ。そうだ時と場合によっては、「鬼婆」にもなるじゃないか。

個人的な心霊経験やオカルトとは違う。身の回りの不可思議に姿形と名前を与え、存在を認知、そして広く共有し合ってきたというこの日本の文化に、わたしはロマンすら感じる。

そんな民俗学的文化に思いを馳せつつ、鏡に写る「山姥」を見つめる。繰り返すが、やはり紛うことなき山姥である。

やはり妖怪は実在する。そしてそれは、あなた自身かもしれない…。(やめなさい)

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