取り返しのつかない日々を思う
言葉にすることで、世の中のあらゆる事象は「事実」として存在・成立すると思っているので認めたくなかったのだが、2歳8ヶ月の次女について。彼女が生まれてから、ほとんどの時を共に過ごしてきたわたしが感じているのだから間違いない。
本格的イヤイヤ期に突入である。
ここ最近、言葉と共に情緒の成長も著しい。表情やコミュニケーションの質の変化から、彼女の頭や心の中で目には見えない何かが、跳ねたり弾けたり時にはこねくりまわされたりしながら、猛烈な勢いで姿形を変えているのが分かる。凄じい変貌を遂げているその「何か」を彼女自身が持て余し、感情との折り合いがつかないのだ。根拠はないが、確実に感じるのだ。これはマジもんのイヤイヤ期だ。遂に来やがったか。
こちらの返答のひとつが地雷。触れてはならない癇癪玉。何かよくわかんないけどよぉ!ムシャクシャすんだよぉ!というフラストレーションが痛々しいほど伝わる。我々はいつその逆鱗に触れるか戦々恐々、何故こんな機嫌取りを、と情けなく感じつつも結局「あーごめんごめんそうだよね、嫌だよね?!」とひたすら謝罪、あわあわ、全面迎合の構え。
地団駄踏んで大暴れ、物を投げつけボコボコに殴ってきたかと思えば抱っこ抱っこ。精神構造の劇的な変化に際する諸症状だとしても、あまりに理不尽…。
長女のイヤイヤ期も、月齢でいえばこのくらいから酷くなった。思い出したくない暗黒時代。それを踏まえているからこそ、わたしは次女の変化を敏感に嗅ぎ取っているのだろう。経験積んだな。そして未来が予想出来る分、少し安心もできる。
そう思えば、長女の時は訳がわからず、ただ真っ向から対峙するしかなかった。それも、生後半年にもならぬ次女を抱えて。
まぁ見事に「上の子可愛くない症候群」になるよね。今は「下の子可愛い症候群」に言い換える人もいるらしいけど、いやあれは紛うことなき「上の子可愛くない症候群」だよ。
母の本能で、赤子を守りたい気持ちが増していて、それを長女もちゃんと感じるからこそ彼女は荒れたのだろう。言い訳しても仕方ないけど、やはり赤ん坊が可愛かった。
何をしても荒れ狂う長女に対し、「大のおとな」のわたしも同じく荒れ狂った。赤ん坊を抱え、更に酷暑という身体的負担の中、一挙一動泣き叫ぶ長女に冷静に対応する余裕は微塵も無かった。この子をどこかに置いて帰りたいとすら思ったこともある。
そんなある日、公園遊びからの帰り道、次女と荷物を抱き、更に泣き叫び暴れる長女をおんぶしていたわたしは、何かがプツっと切れた。長女を乱暴に下ろし
「もう嫌だ!もう嫌だ!!」
と空に向かって怒鳴り続けた。完全に狂っている。
それを思えば、イヤイヤの渦中において、次女ひとりの為に時間を使うことができる今は物理的な余裕が違う。心のゆとりもある。そりゃ勿論大歓迎ではないのだが、全く状況が違う。そういう意味で次女は得だと思ってしまう。
床にひっくり返り泣き叫ぶ次女に、かつての長女の面影を重ねる。そんな長女に、怒りの感情をぶつけていた自分を思い出す。
次女に対し、どうしたの、とか、イヤだったねごめんごめん、となだめながらわたしの胸は、長女への罪悪感でいっぱいになる。浮かんでくる記憶。優しくしてあげられなかった、怒鳴った、突き放した、顔を見るのも嫌で嫌でたまらなかった。わたしは酷い母親だった。
タレントの辻希美さんの発言を思い出す。
彼女が若くして産んだ第一子の長女さん、もう今では高校生らしい。今、その子に対して「もう一度一回小さな頃から育てたい」と思うのだという。当時は全てにいっぱいいっぱいで子育ての記憶も無い。だから今の自分の経験・状態で、もう一回長女さんを育ててたいのだと。
4人の子を育てながら仕事でも大活躍する辻ちゃん。今でこそママタレのパイオニア的存在だけど、当時は授かり婚だしかなり若かったし、バッシングも凄かったらしい。そんな中、無我夢中で子育てをし、すっかりママタレの代表格となってらっしゃることにシンプルに大尊敬する。
そんな彼女のこの言葉は、わたしの胸に深く、深く突き刺さった。
だから今、次女が自分ではどうしようもない心のぐじゃぐじゃを全身で表現する姿を見て、長女のことを思う。
ごめん、と思う。
もう一度、あの時の長女に会えたら。赤ん坊の次女を置いて、小さなあなたと向かい合うのに。
取り返しのつかない記憶に、胸が張り裂けそうになる。
長女への贖罪のつもりで、次女をなだめる。時は戻せない。
今が1番大変な時期だよ、いつか思い返せる日が来るよ、と子育ての諸先輩方は言うけど、全くその通りなのだ。
だけど、「今この瞬間」、脳みそが爆発しそうなほど辛いのも事実なのだ。
わたしがこうして猛省しようが、長女は知ったこっちゃない。ただの自己満足だ。
悔やんでも仕方ない。だからこそ、もう二度と戻らない日々を、悔い無きよう過ごしていかねばならないのだ。分かっていても、今だって下の子ばかりに目がいってしまう。長女は素直で聞き分けがいいから尚更。
もっと甘やかして可愛がってあげよう。あの子との時間を作ろう。
そんな事を思いながら、BGMは次女の絶叫や地団駄。
一方で、こんなことも考える。
酷い態度を取ったことばかり思い返してしまうけど、そんな辛い日々の中でも、愛情を注いだ時だって必ずあったろう。
その瞬間、その瞬間を必死に生きて、記憶に残らないような毎日でも、わたしはわたしなりに子どもと接してきたはずだ、と。あんまり自分を責めないで、と。
結局、都合よく自己肯定に落ち着き、そして、幼稚園に行っている長女に早く会いたいな、と思う。帰ってきたら帰ってきたで、あーしんど、となる。
なんか、子育てを終えて振り返ってる人みたいな口振りだけど、ド渦中ですからね、わたし。
心の底から、子どものイヤイヤ期なんてわたしだってイヤイヤだし、先方の思春期なんてこちとら更年期だっつのまじ勘弁。
いつかそんな時期を振り返ることがあるのだろうか。
振り返って、また、「もう一度育てたい」なんて思えるのだろうか。
それとも、もう二度とごめんだ、と思うのだろうか。
もう戻れない、と分かっているからこそ、「もう一度」、なんて都合良く思ってしまうのだろうか。
それに、戻ったところでわたしは結局、思い描くような慈愛に満ちた母親になんてなれないのだろう、な。