#1 毛糸の靴下。
冬の気配がすると、編み物をするおばあちゃんの姿を見るのが日常だった。
小さくなったセーターをほどいて、毛糸の帽子。
手袋をほどいて、靴下。
何度も何度も姿を変えてきた毛糸。
ほぐしては使ってを繰り返すし、色はおばあちゃんのオリジナルの組み合わせ。
不思議とどんな色が組み合わさっても、違和感がなかった。
「今年はこれを編んだからね。」
そうクシャっと笑って、その年の作品を私にくれる。
いつからか毎年靴下をくれるようになった。
おばあちゃんが私の為に作ってくれたのが嬉しくて、にこにこしながら履いていたのを覚えている。
でも、それは最初だけだった。
そのうち、伸びの悪い毛糸の靴下が履きにくく感じて、選ぶ回数が減った。
そもそも家では裸足でいることが多くて、履く回数も減った。
厚い靴下だと靴が履きにくく感じて、出かけるときは履かなかった。
そしてだんだん思春期やなんかで見た目も気になるようになると、
おばあちゃんの手編みの靴下を履くことはほぼなくなっていた。
それでも毎年くれるたびに、罪悪感を感じながら嬉しそうに受け取る。
それをどの位繰り返したのだろうか。
そのうち、おばあちゃんも年を取り、編み物をしなくなった。
病気になってからは日常生活をおくるのがやっとで、編み物どころではないのが現実だった。
そのころ、私は結婚した。
幸い、実家からそう離れていない場所に住んでいたので、割と頻繁におばあちゃんには会えていた。
「まだ赤ちゃんは出来ないんか?」
ある日おばあちゃんが言った。
「うん、まだみたい。」
へらっと笑いながら答えたが、内心は心臓をぎゅっと掴まれたような気持ちだった。
とうとう、聞かれた。
いつのまにか、結婚して3年の月日がたっていたのだ。
結婚してからすぐに子供は望んでいたのだが、なかなかうまくいかず。
おばあちゃんが悪くなる前に、曾孫の顔を見せたい気持ちばかりが募る。
「ごめんなさい」
いつしか申し訳なさと、頑張っているのにという憤りでぐしゃぐしゃになった。
健康にも気を使い始めたのがこのころ。
冷え性が強く、それが良くないことを学んだので夏でも靴下を履いたり体を温めることに気を使いだした。
そこで役に立ったのが、おばあちゃんの編んでくれた毛糸の靴下だった。
手元にはもう3足しかなかったが、とても暖かく毎日履く。
まさか、この靴下がこんなに役に立って嬉しく思う日が来るなんて。
そんな気持ちで履いていた。
ただ足を冷やしたくないと履いていた靴下だったが、気が付くと足の裏の所が薄くなり足が透けて見える。
靴下って、消耗品だったんだ。
考えれば当たり前なのだが、その時初めて気が付いた気がした。
いつも当たり前にあって、ずっと履けるものだと思っていたのに。
ある五月晴れの日の朝、おばあちゃんは死んだ。
結局私はおばあちゃんに曾孫の顔を見せることが出来なかった。
誰もそのとこで私を責める人も何か言ってくる人もいなかったが、
みんなに責められている気持ちになった。
そうやって自分を責めることで楽したかったのかもしれない。
ごめんね、何もできない孫でごめんね、おばあちゃん。
おばあちゃんとの思い出がよみがえる。
靴下は、あと一足になっていた。
靴下を沢山履くと裏が薄くなって穴が開いて履けなくなる。
それを改めて理解したあの日から、おばあちゃんの靴下を履くのをやめた。
無くなってしまうのが嫌だった。
今でも、手編みの靴下は洋服ダンスの一角に眠っている。
おそらくもう履くことはない。
ほぐすこともない。
ただそこにあるだけ。
おばあちゃんが編んでくれた最後の一足。
履いて役目を終えれば、それでおばあちゃんも靴下も嬉しかろうと思うのだが、どうしても履けないのだ。
若き日は見ると罪悪感を覚え、履くことなくただしまい込んでいた靴下。
今は失うのが嫌で履けない。
断捨離やお片付けの本や動画を見ると、
「一年着ていない履いていないものは捨てないさい」
「使っていないものは捨てないさい」
と、ある。
もう履いていない履くことはない靴下なんて、捨て候補ナンバーワン間違いない。
それはわかっている。
でも捨てられない。
「捨てない」と決めて、履くことがない靴下は、
今日もまだタンスに眠っているし、もう起こすことはないだろう。
私はやっぱり捨てられない。
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