2021年、8月末の夕暮れ情景

夕暮れ前、木陰のせいで少し涼しく感じられるが、終わりが近いといえまだ8月なのでじめじめしている。今まで気がつかなかったが、夏の間に黄色くなった葉を落とす木があることを発見し、アメンボが水面にたてるような驚きの輪がからだの中に広がってゆく。
つくつくぼうしが大合唱し、そのなかでひときわハッキリとした声で、「ミーンミンミンミー」 と鳴いている蝉が、まだ夏は終わっていないと主張する。

もくもくと湧いてくる、少し怪しげな雲がゆっくりと迫り来る気配を感じつつ、太陽の日が斜めに差し込む木々と、地面がじわじわと光っている。木の配置のせいか、ルノワールの描いた風景画が思い浮かぶ。ささやかな楽しみである、絵はがきのものだ。

世界のほんの小さなスペースの中で、とりたてて目立つこともなく、密やかに自分の人生と向き合っているわたしにも、日々の中で頭に浮かんでくるあれをしなければ、次はあれを、あれはあれで煩わしいなどといったことはある。ふと、空を見る余裕があるとき、あぁ、なんかいいなぁと思う。この間まであまり観察できていなかった、もくもくとした雲の形ひとつひとつだったり、空が青いとは実に清々しい!と改めて気がつき、少し嬉しい気持ちになったり。わたしはそういう空白をじつに愛している。(それが正直な気持ち。)

趣味で、少しずつ西洋美術史を勉強するなかで、風景画がとりわけ好きなんだよなぁと発見したのも、ごく最近のことだ。(ほんとうにあまり意識していなくて、気づいていなかった。)歴史の流れに沿って絵を見ていくなかで、様式や構成、人体把握の程度や表情、筆使いの違いはあるにせよ、十字架にかけられたキリストを見せられ続け(歴史順にちょっと絵をみていくだけで、段々最後のほうはうんざりしてくる。ゴメンナサイ)、次に権力者の肖像画を着飾った姿で色々見せられて(こっちが勝手に観ているんだけれど)、それが一般市民になってくると面白味を感じつつ、静物画や風景画が生まれたのがわりと最近であることを知ったときから、知らなかった、全く気がついていなかった、ということに気づかされるのだ。

向こうの山とやまの重なりの濃淡が、ほんとうに東山魁夷の絵みたいだ(日本史はまだ全然やっていないのだけれど)、ほんとうは絵のほうが先なのか、風景か。そんなふうに眺めていてるときに浮かんでくる、小説の中を生きている主人公と、この世界を生きている人の一生に、一体どんな違いがあるのだろうかという問いに対する答えのように、その境目は曖昧なように感じる。

そして画家というのは、わたしがけっこう長い間、と思うより遥かに長く空を見つめ、街や村をじっと観察し、目が景色になっちゃわないかな等と思いつつ、彼らの人生の浮き沈みは色々あるのだろうけれど、自分よりも沢山の時間を何かを見つめることに費やしている、その時間により多く身を投じている、そういう人が居続けてきたことに、どういうわけか、慰められるような、勇気づけられるような気がしてくる。何だか安心する。
わたしが風景を眺めるのを好むのは、そこに静かな流れがあるからだと思う。それはきっと、どこか深いところへの入り口のような気がする。

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