それぞれの価値
数年前、一人で外国に行ったとき、ある駅の階段の下でボロの服を着、手の平にのった数枚のコインを静かに眺めている男性がいた。
わたしは何となくその男性の持つ、澄んでいるが
冷たい川の水に足を浸していて、じっとその流れを見つめているような雰囲気に惹き付けられた。
それから彼の手の平にわずかな1ユーロをのせたとき、その声はわたしの内側から沸き起こってきた。
‘あなたは愛されている。あなたは神に愛されている’
そういう細やかな瞬間、
観光地で美しい建物を見たときではなく、
心の中からその声が沸き上がってきたとき、
その感動のようなものが思い出としていつまでも
わたしの心に深く染み込んでいる。
それはわたしの、滞在的な真実の声かなぁ。
社会的な価値というもの、仕事をするときのスキル
や、家事のスキルや、容姿や年齢といったものによって図られる価値みたいなもの。そういう力は確かに働いているように見えるし、その為に努力が必要で、人間的な成長の糧になるなら大いに結構なもの。
けれども、わたしは憲法がうたっているような文言を本当に信じているタイプだ。
‘基本的人権の尊重’のような。
それは目に見える物事に惑わされない、心の中の信念みたいなものだ。
職業、年齢、性別、国籍など関係がない、根本的な価値があるはずだという。
だから自分に対しても比較的、悲観的な判断をせずにすむし、他人に対してもそう。
社会の中にあるように見える‘狭い考え’、例えば、大分前に流行った負け組だとか勝ち組だとか、ただそういうところに収まっているならば、人間は物でありゴミになりうる。けれども、人間そのものというよりも、そういう考えの方、他人を見下す態度、人を踏み台にしてのしあがってやろうという根性がゴミのようだと考える人間もいる。そういう心が自分の中にもあると知りながら、どうやったらそれから逃れられるのだろうと考えている。
他人や自分を物みたいに扱っても(思っても)、幸せになれない。