ポストカードと、誰かの不思議そうな表情
今月になって行くことを諦めた、美術館から取り寄せたポストカードを布団の上にひろげて眺めはじめる。カーテンをしていたら、外からの日が入らずに、まだ涼しく感じられる時間が幸福だ。
以前行った美術展で買った、クリムトのユディトの絵はがきをひっぱりだし、部屋の隅のテーブルの上に載せた。
子供の夏休みっていいなぁ、という誰かの呟き。そういうものは、もう簡単には巡ってこないのだろうなぁと答えていたわたしに、少し不思議な表情で聞いていた人が思い浮かぶ。
わたしがしている仕事は、人と人とが直に触れあって成り立つ。全く予想していた通りでなく、しかもわりと唐突に、国の声がかかることで再び暇というのが言い渡された。
放置された雑草や、図書館で小説と名のついた書籍を借りられるかもしれないという期待や(読む時間がなければ借りようと思わないから)、仕事がちょっと有意義になるような勉強をしておきたいという欲求。それから、カラヴァッジョの黒い表紙をした大きな画集。
分厚いステーキみたいな紙のかたまり。
昼間、図書館で借りてきたそれをビールを飲みながら夕方になって広げてみる。
彼が闇のなかに描いたユディトも、洗礼者ヨハネも、ダヴィデも、蛇の頭をしたメドゥーサも、首を切るイメージが強すぎた。わたしがそれらに対し、特にどんな意味も見いだすことはないにしろ。首が繋がったまま闇のなかで柔らかく光って座っている、洗礼者ヨハネがわたしは美しいと思う。
それらが何かを示唆しているとか?
もしそのようなことがあったとしても、幸福な時間のほうがはるかに永遠だし、貴重なことにかわりない。
そうだ、トイレ掃除もやらなくちゃ。