おばあちゃんとの時間
先日、祖母が99歳を迎えた。「あとひとつで、100歳だね」と伝えると、笑みをうかべて頷いた。カラフルな色を好む祖母。花柄のカーディガンをせがむ姿が可愛くて仕方ない。
数年前から施設に入っている。頭はしっかりしているが、足が動かず車椅子生活だ。高校生の頃から、祖母との同居がはじまった。すぐに嫁姑問題が勃発した。火花は誰が見ても分かるものだったし、その火花はわたしにも降り注いだ。母が口を開けば祖母の愚痴や悪口だった。それまで離れて暮らしていた祖母のことを、わたしは全然知らなかった。会話の記憶が無かった。若い頃はどんな暮らしをしていたのか、いまの楽しみは何か、好きな食べ物は何か、お友達との交流はあるのか。心の距離は大きかった。
母からの愚痴を聞けば聞くほど、祖母への気持ちは離れ、距離を置くようになった。そう、わたしは自然と母の味方になっていたのだ。2人の間で起こる争いの真実など分かりもしないのに。鏡の法則を考えれば、どちらも悪く、どちらも正しい。似たもの同士だ。今なら分かる。
それから約10数年が経過した。あることがきっかけで、祖母と和解ができたと母から聞いた。祖母は涙を浮かべ「あの頃は悪かった」と言ったそうだ。母も涙があふれ、自分の未熟さを認めたようだった。その話を聞いた時、わたしの言動がどれだけ祖母に寂しい想いをさせただろうかと、反省の念しか出てこなかった。
その頃のわたしにとって、母は絶対的な存在。母もわたしを味方にすることで、自分を正当化していたのかもしれない。一度くらいはみんな経験するだろう。ただ、親であっても間違うことはある。完璧だから、親になれるわけではない。むしろ、子を通して自分を正すチャンスがくるのかもしれない。子を持たないわたしが言っても説得力のカケラもないが。そう感じた。
学校、会社、近所、習い事など、わたしたちはコミュニティに必ず属する。人間は、基本弱い。弱いからこそ、味方を求めて、違う者は排除したくなる。人それぞれに生きてきたストーリーがある。たった数時間、数日で人を判断することはできない。少し違和感を覚えても、まだ情報不足だと思ってほしい。自戒を込めて、書いている。どんなに悔やんでも、あの頃の私たちには戻れない。
先日、旅先で買った香り袋を祖母に渡した。少女のように喜び「ありがとう」と繰り返した。見つめる祖母の目にわたしはどう映っているのだろう。あの頃を埋めるかのようにずっと手を握った。
そして、いつものように「また来るね」と約束した。
どうかもう少しだけ祖母との時間がありますように
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