非常識研究論文 #1
「非常識な人」は社会に適応できない?
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何か新しいことをする前には十分に下調べをする。
これは、はっきり言って当然の常識であろう。
しかし、「非常識研究の第一人者」になろうとしている私は、自分の目の前に次々と訪れる新しいチャンスについて、安全かどうかなんて細かいことはもういちいち調べないことにした。
なんたって私は「非常識について研究する非常識な人」なのだ。
つまり、ダブル非常識。
これは、一種の実験なのだ。
「私が信じたものを信じ続けて良かった」という結果を得られるかどうかの。
今まではあまりに裏切られることが多かったので、私は自分のことを信じられなくなっていたのだ。
そして今、人生の大きな分岐点に立っている。
「裏切られ続ける人生」か、「自分を信じられる人生」か。
だから、色んな非常識なことに挑戦しているわけだ。
今一番興味があるのは、
「やりたいことしかやらずに生きていけるか」ということである。
今までは「生きるためには労働しなければならない」と思い込んでいたから、実際、汗水垂らして働いてきたのだ。
心身共にボロボロになるまで。
しかもそれが「常識」だとさえ思い込まされてきた。
でも、もう違う。
少なくとも私の人生はもうそんなものの犠牲にはならない、そう決めたのだ。
今までは「非常識な人」と世間から非難されるのが怖くて、無理して合わせてきたのだが、その結果「適応障害」と診断される状態にまでなってしまった。
つまり、私は「あなたは社会に適応できない人間です」というお墨付きをお医者さんからいただいたわけだ。
さて、社会に適応できない人間がこの世に生きていていいのだろうか?
いいのだ。
むしろそういう人間こそが、これからの世界の「光」となるのだ。
「はぁ?何言っちゃってるの?」と思ったあなた、あなたはまさに常識的な人です。
これについては、またの機会に詳しく説明するとしよう。
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「社会に適応できる人間」
ところで、社会に役立つ人材とはどんな人材だろう。
もちろん常識的でなくてはならないし、世の中のニーズにあったことを笑顔でテキパキとこなせる人だろう。
安い給料でも文句を言うことなく。
休みを勝手に削られようと、サービス残業させられようと。
それが今の日本の常識ってことだ。
たまに声を上げる人がいても、
「頑張ってね!でもあんまり無理しないでね!」と共感しているような言葉だけかけて、結局みんな通り過ぎていくのだ。
それが、今の日本の常識である。
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🙅それではどんな人が「非常識な社会人」のレッテルを貼られるのだろうか。
例えば、無断で欠勤する。
理由も言わずに有給をとる。
自分のキャパシティを超えた仕事は、たとえ上司の命令でもやらない。
そして、謝らない。決して謝らない。
しかし、この「決して謝らない」というのが非常識な人間の一番素晴らしい部分である、と私は考える。
人はとかく、人に謝罪させたがる。
特に日本人の多くはそれが「社交辞令」であり、人間関係を円滑にするために必須であると思い込んでいるふしがある。言ってみればそれが「日本人らしさ」であり、「文化」なのだと。
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「慇懃無礼」は果たして非常識なのか?
そしてまた日本には「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という不思議な言葉も存在する。
「丁寧過ぎて失礼」だ、というのだ。
もう、こうなってくると何がなんだかわからなくなってくるのだが・・・。
つまり、必要以上に自分を持ち上げるような言い方をされると、人は「バカにされてる!」と感じるらしいのだ。本当はそんなこと思っていないのに、「この程度の人間には、こう言っておけば満足するだろう」という相手の下心が見えるというわけだ。
つまり尊敬の反対。軽蔑、あるいは侮蔑か?
日本語の表現はとても複雑で、微妙なニュアンスの違いがあることで難しくもあり、そこが魅力なのだとも言えるだろう。
私は今、このことを母とのLINEのやり取りを通して実感している。
親子だから丁寧語はいらない?いや、親子とはいえども独立した大人同士の関係であり、親が年長者である以上、子どもである私は母に対して最低限の尊敬を払う必要がある。
しかし、仕事の取引相手ではないから、ビジネス的な「お世話になっております」や、「大変申し訳ございません。」や、「何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。」といった言い回しをするのはまさに「慇懃無礼」と言えよう。
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しかし、逆にこれを利用するという手もある。
つまり、あえてビジネス的な言い回しを使うことで「距離感」を感じさせ得るわけだ。
実際に、私は母との「距離感」を演出するため、今までに何度かこういう言い回しを使っている。
それは母が私に対して、まるで「自分の一部」のような感覚が拭い去れないでいることを肌で感じているからだ。
「自分の一部である存在である娘」は自分の思い通りにしてもよい、ということである。良くも悪くも娘の人生に責任をとろうとしている感じが見えるのだ。
実は、つい最近まで私自身もそんな感覚があったことに気づいた。
なぜなら自分の不幸の原因は母親にあると思っていたからだ。
これはつまり、自分の人生の責任を母にとらせようとしていたことになる。
とは言え、「ビジネス的な言い回し」は使い方を誤ると本当に相手を怒らせてしまう可能性もあるし、場合によっては「すねて見せてるだけ」に見えてしまう危険もある。
ただ、これだけは心がけている。
母からのLINEにはすぐに返さず、気持ちに余裕がある状態になってから返す。
その時にできる範囲の愛と尊敬を込めた言葉で。
そして、関わりたくない情報にはコメントしない。
このような姿勢で対応し始めて丸3ヶ月が過ぎたのだが、今のところ母からこの私の対応を非難するようなことは言われていない。
母に対するこういった接し方は、以前の母なら「非常識」だと非難したかもしれない。
でも、母も年齢を重ねてだいぶ柔軟になってきたようだ。
私から見ればまだまだ思い込みの激しい母ではあるが、何せ自分自身が「非常識の権化」のような人生を送ってきたのだから、人のことをどうこう言える立場ではないだろう。
つまり、「常識」も「非常識」も、人それぞれなのだ。
今のところ、そういう結論になる。
♡♡♡最後までお読みいただき、ありがとうございました。あなたの幸せのヒントが見つかると嬉しいです^^!いっっぱいの愛をこめて。♡♡♡
桑田華名