「キラキラ☆プリキュアアラモード」感想

 プリキュアシリーズ14作目「キラキラ☆プリキュアアラモード」。モチーフは「スイーツ」×「アニマル」。一言で言えば癒し系。ただ、物語としては、約10話単位という高めの頻度で敵の入れ替え、それによる徐々に敵の目的が分かっていく構成。そしてプリキュア個人回での各々のテーマがハッキリしていて、それが繋がっていく……個人的にはキャラクターではなく、物語で引っ張っている印象。

 変身BGM(キュアラモード・デコレーション)をプリキュアごとに用意し、戦闘シーンで個人々々の専用キャラクターソングを流すなどなど、音楽面でも強い作品です(これ以外でも重要場面で流れるBGM「夢見るパティシエ」「つくって!たべて!たたかって!」などその他BGMもかなりお気に入り)。

 本作ではプリキュアシリーズの売りでもあった肉弾戦をあえて封印した作品となります。しかも前シリーズの「魔法つかいプリキュア」のように、プリキュアは伝説の「戦士」ではなく、伝説の「パティシエ」。敵に「キラキラルを自由に操っている。こいつプリキュアだ!」と言われるように「キラキラル」…スイーツに宿るエネルギーを“扱う存在”がプリキュアとされています。これまでのシリーズでの戦闘とは異なり、この「キラキラル」を変質、操り、それを攻撃に用いる。遠距離攻撃が基本。つまり、直接的な打撃系は禁止というか、効かない(ジェラートがキラキラルを纏った拳で殴る、ショコラの剣戟などなど、あるにはありますけど、全体に占める割合はかなり低め)。

 これまでのプリキュアシリーズでは、重要回以外では敵幹部が怪物を出して、怪物とプリキュアの戦いを側から観ているだけ、な戦闘が多い(5のようにコワイナーと敵幹部を同時に相手取る作品もありますけど、重要回以外で幹部単体の戦闘シーンが多い作品はあまり観た記憶がないです)。(人形を巨大化させて戦うビブリーや序盤のガミーたちは除いて、)敵幹部と直接戦う場面が多い。そのため戦いを通して、敵側の考えの変化が興味深い。

 特にジュリオとエリシオはその筆頭。

 ジュリオは実験と称して、プリキュアの「キラキラル」を反転して利用するが故に、プリキュア側を理解することになり、結局は改心の方向に。人の心の闇を増幅することにより相手を操るエリシオは、プリキュア側の闇の部分に目を付けるが故に、人の心の光そのものまでもが争いの原因と結論付けるように。その考えの変化が面白いです。また、彼らは単純にプリキュア含む登場人物の負の部分にも目を向けさせることで、物語に陰影を与える結果になっています。

 「キラキラル」は本作プリキュアの力の源。あらゆる物質に変換可能で、戦闘で使われるスイーツに宿るエネルギー。想いが宿っていればどんなスイーツにでも宿る。物語的にはこの「キラキラル」は敵も反転させて使用することで、想いをぶつけ合う表現になっています。ただ、戦闘以外でも視覚的に想いを表すのに一役買っています。

 「自由と情熱を!レッツ・ラ・まぜまぜ!」
(---キラキラ☆プリキュアアラモード キュアジェラート変身前口上)

 「キラキラル」が戦闘以外で、視覚的に一番効果的に表現されたのはあおいだと思います。あおいはとにかく本能的なキャラクターとして描かれました。特に27話のライブバトルでミサキに完敗したのに頭では無理やり理解しようとしていても感情が追いつかないなど。言葉で感情を語るようなタイプではない。とにかく描写も思わせぶりになりがち。そして彼女の個別回での登場人物(ミサキ、水島)もハッキリとは言葉にしない。だから、

 「なんだちゃんと届いているじゃんか……」
(---あおい キラキラ☆プリキュアアラモード 14話)

 「キラキラル」を用いての表現(=想いの視覚的表現)が際立つ。例えばあおいの個別回。14話の水島。彼は当初、あおいが音楽の道に走る夢には反対しているので、あおいの歌を聞いて心には響いていても、実際は言葉では決して良いとは言わない。頑固で、クソ真面目。その彼の本音の引き出しを「キラキラル」で表現する。真面目な水島のキャラクターはブレないし、それでいて、視覚的にあおいの歌が彼に届いているのが解る。なんていうのは設定の使い所が巧いと思いました。

 「キラキラル」とは何か?

 「女の子はね、大好きから気持ちがはじまるの。だから、時々思い出すのよ。気持ちがはじまったその時を。大切な想いの始まりを。想いは女の子の輝く力になるの」
(---日向まりこ キラキラ☆プリキュアアラモード 4話)

 これ、序盤となる4話での台詞。まさに本作プリキュア側の「キラキラル」を端的に表した台詞でもある(本作で既に夢を叶え、指針として描かれるキャラクターは何人もいるが、まりこはその一人)。思えば、序盤のプリキュアとなる中学生組のいちか、ひまり、あおいと、高校生組のゆかり、あきらで、物語で描かれる彼女らの「大好き」へのアプローチを大別できる。物語開始時点から中学生組は既に“各々の「大好き」を自覚できている”。高校生組は“各々の「大好き」を自覚できていない”。それはこのまりこの話を高校生組の加入前に持ってきたこと……高校生組は加入時点では「大好き」を自覚していない、自覚するのは終盤となるため、高校生組が加入した(5,6話)直後ではこの話はできないことからも解ります。

 例えばひまりとゆかり。本編中ではほとんど絡みはないこの二人。自己批判・自己肯定でシナリオを展開するのは同じ。ただ、物語“開始時点”での“「大好き」の自覚の有無”。この違いが大きい。

 「知性と勇気を!レッツ・ラ・まぜまぜ!」
(---キラキラ☆プリキュアアラモード キュアカスタード変身前口上)

 物語開始時点で自身の“「大好き」を自覚している”ひまり。彼女は幼少期にそのスイーツへの「大好き」の想いが強すぎたがゆえに、他者からの評価がトラウマになり、引っ込み思案な性格に。だが、ひまりは、どの個別回も、そんな「大好き」を持っている彼女“らしさ”を肯定する話が多い。引っ込み思案ではあるが、そもそも序盤の13話の時点で大好きを伝えることは出来るし、28話は過去を含めたひまりのこれまでの「大好き」へのアプローチ…単なる興味だけではなく、その知識を蓄えてきたことへの肯定となっている。

 「スイーツが好きな気持ちと、ほんの少しの勇気があれば、私は前に進めます」
(---ひまり キラキラ☆プリキュアアラモード 44話)

 だから、ひまりは、実際、あんまり変わっていないのかもしれない。勇気を出せるようになった点は変わっている。けれども、これまでの自分らしさを好きになる話…自身の「大好き」をそのまま出す勇気。そのままでも良いじゃん。そんな肯定感がこのシナリオの味だと思います。自分の中の「大好き」を信じて、その「大好き」を伝える勇気を出す話と言っても良い。

 「美しさとときめきを!レッツ・ラ・まぜまぜ!」
(---キラキラ☆プリキュアアラモード キュアマカロン変身前口上)

 ひまりとは対照的に物語“開始時点”で「大好き」を“自覚していない”ゆかり。ゆかりは周囲の評価と自己評価のギャップ…他者に理解してもらえないのだと苦しむ。側から見ると、なんでもある程度できてしまうゆかりですが、実際はある程度なんでも出来るが故に退屈しているし、受け身体質だし、あきらと自身を比較……いつも笑顔で誰にでも優しく接することができるあきらのようになれないことでの自己嫌悪が先立つキャラクターです。

 「いちかのおかげよ。私、茶道が好きなのね」
(---ゆかり キラキラ☆プリキュアアラモード 16話)

 恐らく、こういったゆかりのことを、いちかは察していないでしょうけど、だからこそ、ゆかりに素で接して「大好き」を自覚させる。4話のマカロン作りで、ゆかりに初めて夢中になることを見つけさせるし、元から続けていた茶道への気持ちも自覚させる。ゆかりは個別回も過去の自身を受け入れつつ変わる。そして、ゆかりの「夢」も茶道…過去から自身を形成したモノ、スイーツ…気付きを得た現在、この二つから基づいた形となる。

 その心情の変化は42話でも表れていますね。ゆかりは序盤から中盤までは自身の容姿への褒めに対して「よく言われるわ」と素っ気なく返していました。しかし、これまでの物語を経たゆかりは、42話での「ゆかりさん素敵です」に対しては嬉しそうにしているし、そんな返しはしなくなっている。他者は自分のことをわかってくれないと拒絶していた彼女が、他者の評価を受け入れているのが解ります。

 「暗い闇が私の心の中にあるの。認めるわ。でもね、私の中に光はあるの。あの子たちといると楽しいの。色々面白いことが増えたの。前より世界が鮮やかに見えるのよ。」
(---ゆかり キラキラ☆プリキュアアラモード 29話)

 自己批判・自己肯定でシナリオを展開するのはひまりとゆかりは同じ。ただ、物語開始時点で「大好き」を自覚しているかどうかが異なる。そのためなのか結論も真逆。元から自分の中にある「大好き」……“自分らしさそのまま”で自己を曝け出す勇気を出せるようになったひまり、「大好き」を自覚、見つけたことで……“自身を変えて”過去の自分まで受け入れるようになって世界の見え方が変わったというゆかり。「大好き」から「夢」に繋げる点は同じですが、最初の前提が違うだけでこれだけ変わるのが面白いです。

 「強さと愛を!レッツ・ラ・まぜまぜ!」
(---キラキラ☆プリキュアアラモード キュアショコラ変身前口上)

 ゆかりといえばあきらはかなり関係が強調されましたね。序盤のゆかりは全体が見えてはいるけど、あまり口出しはしない(要所ではしますが)。面倒臭がりだし、気まぐれだし、孤高を気取っている。

 「みんなの意見じゃなくて、あなたの意見は?」
「やっぱり、悲しい顔をしている子は放っておけないよ。これは自分の意見!」
(---ゆかり&あきら キラキラ☆プリキュアアラモード 8話)

 それに対して、あきらは全体をよく見ているところまでは同じ。ただ、周囲へのフォローが多い。序盤だけでもあおい→ゆかりで険悪なムードになる前にフォローを入れていたり、年下に心配させないように無理しているところとか、人助けでゆかりが諦めるところを根性で乗り切ろうとするところとか。周りが見えすぎて顔色をうかがってしまうし、困っている人がいたら自分を犠牲にしてでも放っておけない。この性格はあきらに病弱な妹がいるためだと思います。あきらも「大好き」を自覚できていないと先に挙げましたが、それはあきらの「大好き」……妹に正しく向き合えていないこと。

 「これからもお姉ちゃんをよろしくお願いします。」
「ほら、やっぱり似ている。守られているのは妹さんの方じゃなくて、あきらの方かもね。」
(---みく&ゆかり キラキラ☆プリキュアアラモード 15話)

 15話のあきらの表情から読み取れますが、上記のゆかりの台詞を聞いたあきらは全くわかっていない。無自覚。あきらの妹のみくとしては自身が病弱なために、あきらの重荷になっている自覚があり、あきら自身は無意識にみくへの心配や常に近くにいない寂しさが表情に出ている。それがみくには見えてしまっていた。

 「わたし、お姉ちゃんの笑顔が見たかったんだ。私のこと、いつも心配している顔じゃなくて、本当の笑顔が」
(---みく キラキラ☆プリキュアアラモード 15話)

 ゆかりの「守られているのはあきらの方かもね」は常に無意識に寂しそうにしているあきらを、どうにか笑顔にしたいとするみくについて。あきらは無自覚に「大好き」な対象を苦しめてしまっていた。

 「私は、闇には染まらない。エリシオ、君は勘違いしている。この寂しさこそが私の強さ、そして愛だ。」
(---キュアショコラ キラキラ☆プリキュアアラモード 44話)

 だから、あきら自身が己の寂しさ。「大好き」に対して正しく自覚し、正しく向き合う必要があった。あきらの研究者になるという夢は、みくとしては、またあきらを自らのせいで縛ることになるのではないか?という疑問にも繋がる。だから、あきらがこの「夢」に対して進むためには、あきらはそれを否定しなければならない。「大好き」を正しく自覚するのは必須条件であり、それはみくを含めて大勢の人を救いたいという想いを見せること。30話でゆかりが言う「一番大切な人が何人いたって、問題ないでしょ」。この台詞を体現する。これはここに至るまであきらの性格として描かれてきたことですし、あきらのシナリオはその性格と行動を含めた一貫性は特に爽快感があります。

 「元気と笑顔を!レッツ・ラ・まぜまぜ!」
(---キラキラ☆プリキュアアラモード キュアホイップ変身前口上)

 物語の中心として据えられたいちか。いちかは、9話「まだまだあるかも、私たちのキラパティなら出来ること」から始まり、スイーツに「大好き」を込めて、人々との交流を積み重ねてきました。そしてその交流で描かれてきたモノは「キラキラル」を生み出すのは何も特別なことではない。誰でも生み出すことはできる。終盤に至るまでそれを丹念に描写してきたからこそ、48話の「世界丸ごとレッツ・ラ・まぜまぜ!」に活きてきたのだと思います。

 「いちかに教わったのよ。相手のことを想う、大切さをね」
(---シエル キラキラ☆プリキュアアラモード 37話)

 そして終盤の展開はいちかの「夢」に繋がってくる。いちかは当初から「大好き」はあるが、終盤まで「夢」とは結び付いてはいない。キラキラパティスリーでの活動、ラスボスたるエリシオの発言で、いちかの「大好き」と「夢」が繋がる。さらにそれだけではなく、いちご坂の平和を幼いペコリンに託す。未来を作る者。未来を受け継ぐ者。未来に繋がっていく。それは、これまで徹底的に相手のことを想ってきたいちかの行動と重なりますし、キュアペコリン登場の必然にもなる。最終話での数年後、成長したペコリンのいちご坂での姿が、その平和を守り抜いたことの証明でもあるのです。

 各個別回を見渡すと、この作品は各キャラのテーマをしっかり定め、それを外さない。「大好き」からその先、「夢」へと繋ぐ。その丁寧さが際立った作品なのだと思います。

 「夢と希望を!レッツ・ラ・まぜまぜ!」
(---キラキラ☆プリキュアアラモード キュアパルフェ変身前口上)

 だからこそ、シエル自身の話を本編ではなく、劇場版に持ってきたのも納得がいく。片方の大好き(パティシエ…夢)を優先しすぎて、もう一つの大好き(ピカリオ)が見えなくなったのがシエル。シエルは23話ではスイーツを作ることを諦めたが、ジュリオといちかのおかげでキュアパルフェとして復活する。

 「それをみんなのせいにされたくない。だから、強さを証明しなきゃいけない。きっと怪物の中で戦っているあの人の前で。」
(---シエル 映画キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと!想い出のミルフィーユ!)

 37話の続きとなる劇場版も過去の過ちについては言及があるのみで、それは既に乗り越えたモノとし、強さを証明するという展開。キュアパルフェになった23話の時点で既に彼女は「大好き」から「夢」に繋ぐことが出来ている。この時点で、シエルの当初の夢……既にパティシエであり、さらにはプリキュアになる……は叶っていると言っても良い。だから、終盤のシナリオとしてはシエルの弟のピカリオ中心となり、ピカリオが「大好き」から「夢」へと繋ぐシナリオとなり、シエルはそれを手助けする形になる。

 他の5人とは異なり、シエルはキュアパルフェになった時点で、夢を既に叶えた存在であり、夢を“叶える側”ではなく、“与える側”となっている。だから、物語の後半、他の5人が個別回で描かれる「大好き」から「夢」へと繋がる本作の基本の流れを描けない。本編で同列に描くわけにはいかなかった。細部に渡るまで丁寧に構成されているのが解ります。

 「大好き」は当然、一通りではない。各々の「大好き」をしっかり表現すること。

 その「大好き」は負の部分まで含めて。それを表現するための「キラキラル」という設定であり、だからこそ、この作品は心情描写の丁寧さが際立つ。個別回はキャラごとのテーマがハッキリしているし、それがしっかり地続きになっている。それでいてキャラクターは終始ブレがない。キャラクター設定を外さない(敵であるビブリー、ピカリオなんて、言動は正直浄化後も変わらないし)。シナリオ構成も細部に渡るまで。如何にこの作品が愛され丁寧に作られたかがわかります。

 この作品の欠点を挙げるとしたら、2022年現在放映中のデリシャスパーティプリキュアと同じく、夜中に見るのが辛いということですかね(朝アニメなので正しいのでしょうが)。お腹が空きます。





その他:
・シエルの別格さ
 変身セリフにも表れているのでは?と思ってしまいます。序盤の5人は変身台詞で「まぜあわせる」のは、本人の「特徴」+「夢にまつわる部分」と思っていたのですが、シエルは台詞に「夢」が最初に来る。「夢」が彼女の特徴となっている。そう言った意味で別格ではと。まぁ、そう思い込んでしまうほどに、この作品は構成が丁寧。

・ゆかりについて
 掴みどころがない。心意を読ませないというか、語らないというか、最後まであえて言わないのでちょっと読みにくいところがありますが、こうして見てみると結構素直なシナリオをしている気がします。彼女の性格、これ自体は面白い試みだったと思います。例えば16話。リオとの心理戦。ゆかりがあんまりにも心意を喋らない物だから、リオへの引っ掛けどころか、視聴者含めて引っ掛けている形になる。さらにはネタバラシを16話終盤に持ってくるのだから、ゆかりの心情含めて”解る”と同時に戦闘的な逆転にも繋がる、なんて表現ができたのだと思います。


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