ケアとセラピーについて考える
こんにちは!
訪問看護ステーションlifeで看護師をしている田代さとみです。
夜はパジャマを着て寝たい派で、近年は無印良品のパジャマを愛用しています。
先日、ズボンのお尻の部分が破けていました。これで2本目です。
lifeには、看護師と保健師と作業療法士がいます。
7月から理学療法士も加わり、さっそく大活躍しています。
「暮らしといのちに貢献する」というlifeの理念を実践するにあたり、この専門職の組み合わせは最強だと思います。
しかもどのスタッフも素晴らしいのである。
人間だもの、そりゃ色々ありますけれど、それでも職場としてlifeを選択した時点で、ベストな選択をした人たちだと思います。
そう思ってもらえるような会社の土壌を、私は夫と共にせっせと作っているつもりです。(このnoteで私の頭の中を見えるようにしているのもその一環です。)
ところで、誰かの力になりたいと思った時、あなたならどうしますか?
まずは話を聞く。
困りごとがあれば、解決策を提案する。
痛みや苦痛があれば取り除く。
関連機関に連絡をして、相談する。
カンファレンスをして、援助の方法を話し合う。
色々あると思います。
私はケアの専門職なので、痛みを取り除いたり、心地よくしたりするためのいくつかの技術は持っていると思います。
でも最近、そのようなケアだけが私が目指すケアなんだろうか…と感じるようになりました。いや、前々から感じていました。
目の前にいる人の力になるって、改めて考えるとかなり奥深いですよね。
その人のニーズの本質を理解しなければ、本当の意味で力になることができないと思うから。
その本質に迫ろうとするとき、私はあえて傷というか、触れてほしくないと思っているであろうところに触れてしまうことがある気がします。
「それしたら、元気でいられる時間が短くなるかもしれないですよ」
「そうする目的は何ですか?」「簡単に諦めないでほしい」
「つまり生きていたい、ということで良いですか?」
「気持ちはわかるし叶えたいけど、両方とることはできないと思います」とか。
でも、そこを伝えないことにはケアが始まらないじゃないか、と思っているのも事実です。
もちろん、これらを伝える上では信頼関係が土台にあることは言うまでもありませんが、
これって一体何なんだろう…私がしていることってケアなのかな…とモヤモヤしていました。
モヤモヤをそのまま抱える訓練中の私ですが、幸運なことにこのモヤモヤを言語化してくれている本に出会いました。
『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』 東畑開人
この本の中でケアとセラピーは以下のように書かれています。
ほほぅ…
ということは、私はケアとセラピーを行ったり来たりしているんだ。
触れられたくないであろうところに触れている気がしていたのは、セラピーだったんだ。そして、それでいいんだ、と思えました。
なぜなら、対象としている利用者さんやご家族の抱えているニーズは本当に多様で、日々変化するものだからです。
病状が変化すると、心境にも変化が起きる。
いのちのステージが変われば、意思決定を迫られることもある。
ただ話を聞いてもらいたい気分の日もあるし、背中を押してほしい日もある。
体に触れて痛みを和らげて欲しい日もあれば、調子が良いからおしゃべりだけでもいい日もある。
一緒に悩んで欲しい日もあれば、悩みを一発で解決してほしい日もある。
そういう多様なニーズをしっかり見つめて、ケアとセラピーを行ったり来たりする。
それでいいんだと思います。
と言うより、目の前の人の力になるためには、どちらも必要なんだと思います。
看護はケアすることが仕事だと認識しているから、あえて傷に触れることはしないし、正直やり方がわからない。学校でも習っていないと思います。
そもそも苦痛は取り除くもので、与えるものであってはいけないと認識している人が多いと思います。
でも、誰かの力になりたいと思った時、それだけでは足りない場面に出会うのもまた現実。
解決できない苦しみを抱える人を目の前にした時、自分の無力さに打ちのめされることもある。
それでも私は、あなたの力になりたい。そんな時に、このセラピーの視点が一助になることがあるかもしれません。
作業療法士と理学療法士は「セラピスト」だから、「当たり前じゃないか」と思うかもしれないですね。
でも、看護を本業とする私としては大発見で、自分が今していることの裏付けが持てたように思います。
ただ、ここに来るまで、私はたくさんの失敗も重ねてきています。
今でも失敗するし、これからも失敗すると思います。
ニーズの本質を理解したくて言い過ぎたり、その逆だったり、伝えるタイミングを間違えたり…そもそもうまくケアできない日もあったりする。
誰かの力になるって、言葉で言うほど簡単じゃないです。
奥深いです。
でも、やっぱり目の前にいる人や、つながっている人の力になりたいし、それが使命だと思うから、これからも勇気を持って向き合いたい。
ケアとセラピーを行ったり来たりしながら。
こころにとって大切なこと
この本の中で、印象に残っている文章があります。
心の成長や成熟といった現象が人としての幸せだと信じている私にしてみれば、素晴らしい文章で、本当に励みになる。
病や障がいをきっかけに痛みを持ち、苦しむ人もいると思うけど、その苦しみにしっかり向き合うこともやっぱり大切なんだと思います。
1人で向き合えないなら、誰かと一緒に向き合ったらいい。
そのためにlifeは存在しています。
私にとってはキャリアの変換がこれでした。生活が大きく変わりました。
管理者になりもうすぐ1年になりますが、正直、本当に大変な1年間でした。
管理者であることがつらいよ、と、何度思ったことか。
大変なのは長時間労働ではなくて、胸の痛みを誰にも打ち明けられないこと、見えない重圧の存在を誰とも共有できないことでした。
それでも一つ一つにしっかり向き合ってきたつもりです。
内省し、時には誰かに話を聞いてもらい、時にはお酒を飲んだりしながら。
休むことなく看護のお仕事をしました。
全て自分に対するケアとセラピーだったのだと思います。
だから、1年前の自分よりは心の面でちょっと成熟したように思います。
ケアの循環
訪問看護をしていると、ケアしているようでケアされているな…と感じることがよくあります。これは訪問に限ったことではなく、病棟時代にも、患者さんから元気をもらうことって、たくさんありました。それがモチベーションになっている看護師もたくさんいると思います。
私はこの「お互い様」という、ケアの循環を目指しているところがあって、病気や障がいがある人=ケアを受ける人とは考えていません。たまに一方的にケアを受けたいという主張に出会うと、ちょっと戸惑います。これは私の価値観であって、正しいとか間違いとかではありません。実際、その線引きがあるからお金が生じているのも事実ですし。
それはさておき、風邪も滅多にひかず一見すると健康そのものの私ですが、こころの風邪はしょっちゅうひいています。そんな時でも私は看護をします。利用者さんや家族をケアします。すると、どうでしょう。いつの間にか自分の不調が和らいでいる。今日はとてもじゃないが笑えないヨ、と思っていたのに、笑っている。
抱えている問題が解決するわけではないけれど、問題に向き合う元気が出てくる。
私は利用者さんやご家族をケアすることで、ケアされているんです。
管理者になり外部とのやり取りで窓口になることが増えてからは、ケアマネさんや業者さんにもケアしてもらっています。
これは本当にありがたいことです。たまに「さとみさん、つかれてるね」「大変なんでしょ」と、痛いところつかれて「い、いやぁ、それほどでも…」なんて言いながら人間味全開でやらせてもらってます。
このケアの循環を日常に感じることができたら、人はもっと優しくなれると思うし、安心して年を重ねられると思います。
おわりに
まずまずイケてる作業療法士(まさにセラピストですよね)を夫に持ちながら、セラピーについて書くなんて。
夫にお願いした方が良いのかもしれない。
いや、でもこれはあくまでも看護師が考えるケアとセラピーのお話です。
誰かの力になりたいと思うあなたのお役に立てたら嬉しいです。
幸あれ〜!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?