”性格”の正体を考えてみる
語弊を恐れずに言えば、性格は遺伝的なものではない。
あなたの性格は?と聞かれた時に、どんな時でも同じ決まった回答をできる人はいるだろうか?
幼稚園、小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人。
その中でも時期によって夢中になったものなど異なってくる。
こんな話を持ち出したのは、ふと昨日「自分はどんな性格なのか」と気になったからである。そこから「そもそも性格ってなんだ?」と哲学的なところにまで考えを巡らせていた。
辿り着いた結論は
あくまで自分の考えなのに、この引用枠に囲まれた瞬間に偉人になった気分を味わっているのは僕だけだろうか(笑)ちょうど、何でもない絵が高価な額縁に飾られたかのように光出して見える(驚)
話を本筋に戻す。
性格は、遺伝的な部分ももちろんあるが、後天的な部分の方が大きいと僕は考えている。
幼稚園の頃は、おとなしかった。高校の時は、うるさかった。社会人になって大人しくなった。
このような人は結構いるのではないか?
果たして、この例はDNA的な部分が変化し性格が変わったのか?絶対にそうではない。そもそも周りに友達や遊ぶ環境がなかったら大人しくする以外ないだろう。だから例えば、おとなしいという性格は遺伝とは別のところから来ている。どこだ?
僕の幼稚園から性格の変遷を見てほしい。
幼稚園:おとなしい
小学生:うるさいクソガキ
中学生:ヘタレ、怠け屋
高校生:頑張り屋
社会人:おとなしい
これが僕の中での自分の認識である。パッと頭に浮かんだものをそのままチョイスした。(どれも同じレイヤーで語れていないが。)
注目すべきは、幼稚園生と小学生、中学生と高校生で性格が逆転しているところだ。
色々変数があるのは承知だが、その時の友人関係や自分への自信、夢中になっていることが自分はどういう性格か、という認識に影響を与えている。
そう。あくまで自分の中の評価が変わっているだけで、元々の性質は変わっていない。行動から認識が変わっただけ。
そんなこんなで文字を綴っていると、マザーテレサの名言を思い出した。
ちなみ、こちらが正しい引用枠の使い方である。やっぱり本当の偉人の名言を枠の中に入れると収まりがよろしい。うん、綺麗だ。
この言葉と出会ったのは大学に入りたての頃。
当時は、ゴミ拾いをしているといいことが返ってくるといった感じの精神論に聞こえていた。だけど、今は違う。マザテレの言葉は非常に合理的だった。
性格とは、その時期の行動とその頻度によって自分や他人から評価されたもの。逆を言えば、行動こそ自分のアウトラインを作るものではないか。
もし、自分中で自分はダメな人間だという評価だった場合、都合よく頑張らなくてもよいという隠れ蓑になったり、不幸な人間を演じたり、頑張ってもどうせダメだと最初から諦めてしまったり。でも、そんな心の中が負のイメージで覆い隠されている人間でも、どこかで好転することを望んでいるはず。
自分がどういう人か、自分の中で凝り固まってしまったら、その認識を変えるのは本当に難しい。内発的には不可能と言っていいくらいだと僕は思っている。
でも、行動こそが自分を評価するトリガーであれば、ダメな自分の評価のままでいいから行動することが重要だと言える。
しばらく行動していれば、その時には自分がどういう人間かなんてことには囚われていないだろう。でも、いつかふと自分を再認識した時に、評価がガラッと変わっていることに気づくかもしれない。
性格は、何を行っているかとその回数による結果でしかない。