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逆境を力に。18歳で選んだ茨の道。

「大学に行かせられるお金はないんよ。」

申し訳なさそうに話す母から衝撃の一言を聞いたのは高校3年生の春。母は離婚後、地元長崎の五島列島でスナックのママとして働いて祖母の手を借りながら兄と私を育ててきました。

絶望の淵から一筋の光が見えた日

幼いながらも家計が苦しいのは薄々気づいてはいたことでしたが、厳しい現実を突きつけられたようで酷く落胆したことを覚えています。

当時、私の将来の夢は海外を飛び回るキャビンアテンダント。華やかな世界で働きたい!と、離島のど田舎で胸を膨らませていた矢先のことだった。

現実を知った私は、何とか進学する方法がないのかと放課後に誰もいない進路指導室のパソコンで調べ始めました。

すると、奨学金を借りて進学する方法はすぐに見つかったんですが、奨学金って借金じゃない?と卒業後まで続く奨学金の返済のことが不安だったため、更に調べてみると…これだ!という方法に行き着きました。

それは【新聞奨学生制度】というもの。一般的にはあまり馴染みのない言葉かとは思いますが、私の求めているもの全てが網羅された魅力的な制度でした。

一番の決め手は親からの支援は一切なしで学校に通えるということ。

ただし、大阪の新聞販売店に奨学生として朝刊・夕刊・集金・ちらしの折り込みをすることが条件。


・奨学金で学費全額補助(入学金含む)
・大阪までの交通費全額補助
・家賃、光熱費、交通費全額補助
・集金業務をしたら月に10万程支給される
・専門学校のカリキュラムは業務に支障のない朝から13時まで(月曜日から土曜日)
・学生全員が新聞奨学生の仲間
・国際観光学科では、英語や旅行、ホテル業 界のことが学べる(現在は閉校)
・卒業時、1ヶ月間の海外留学費用全額補助

これはまさに私のためにある制度だ!
頑張ったら憧れだった海外留学にも行ける!と思って家族に報告後、すぐに申し込みました。

その後、無事に合格。卒業式の翌日に原付バイクの免許を取りに行き、その1週間後には、友人や家族と別れを惜しむ間もなく五島列島を離れ大阪へ。絶対にどんなことがあっても最後までやり切ってみせる!!という気持ちと共に。

沢山の友だちに見送られ、大阪に旅立った日。

「初志貫徹」私の決意

私は販売店に入った初日の挨拶で「初志貫徹できるように頑張ります。」と宣言しました。なぜあのとき格好つけて四字熟語を使ったのかは覚えていませんが、そのときの心境に1番しっくりくる言葉でした。

それから、2年間。雨風強い日も、雪の日も関係なく、朝3時起きで新聞配達。睡魔と戦いながら学校へ行き、帰宅後夕刊を配る生活。17時まで勤務。週2日は19時まで勤務。集金時期には個人宅へ集金。

今では考えられない程過酷な生活ですが、辞めてしまうと新聞社から補助してもらっている学費の奨学金を返済しなければならなかったので、途中で辞める選択肢が自分の中にはなかったのです。

そんな中、辛いことばかりではなく、集金先のお母さんに「頑張ってるねー!いつもありがとう。」と言ってもらえたり、「はい、飴ちゃん。」と言って飴をもらったり...人との温かい関わりもありました。

学業と仕事の両立とその裏側で支えてくれた人の存在

2年間無事にやり遂げ、学校から皆勤賞をいただきました。表彰されたのは、私と私の同居人の2人のみ。学校も職場も家も同じ。頑張る人が身近にいたことでモチベーションを保つことができました。

料理も洗濯もほとんどしたことがなかった私をいつも優しく支えてくれた同期の友人や販売店の人たち。

地元からエールを送ってくれた家族。定期的にダンボールで届く私の好きな食べ物の詰め合わせや毎回涙なしでは読めなかった手紙が大きな励みになりました。

小学一年生時の将来の夢が掲載された学級通信の裏に祖母が書いてくれていたメッセージ


考え方次第で切り開くことのできる未来


私は自ら茨の道を選択し、学業と仕事の両立を成し遂げることができました。19歳から21歳までのこの経験は、私の人生のターニングポイントとなり、今の自分を作っている基盤となったと言っても過言ではありません。

当時抱いた夢は、時間の経過と共に変わっていき、今は全く違う仕事をしていますが、この時に感じた悔しさ、寂しさ、虚しさから学んだことは沢山ありました。

諦めず続けることの大切さ。頑張った先に得られるものがあるということ。そして何より、自分の人生は自分次第で変えられるということ。


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