Tattoo (2-Final)
Tattooの話の続き。(その1)
*タイトルまんまのタトゥーの話なので、注意です*
10年ほどの絶縁期間終了(妹、母方の叔父が間に立ってくれた)のち、私とアルゴは3回ほど日本に帰国しているのであるが、アルゴは必ず長袖を着用する。
「日本ではTattooは、アメリカやヨーロッパのように一般的でもないし、受け入れられない」と知識として知っており(大学の頃、日本語のクラスで教わったたしい)文化やその国に住む人をRespectするために、という理由で人前に出るときは必ず長袖を着てタトゥーを隠している。暑い時期に帰国した折なぞ、汗だくになっているアルゴをみた周りの人が「暑いからいいよ、気にしなくて、というか、誰も気にしないから(アメリカ人だし)半そでになっていいよ」と言うこともあるけれど、それを頑なに固辞する。
受け入れられている文化(アメリカ)で長年の夢をかなえた私と、受け入れられていない文化(日本)での対応をきちんとするアルゴ。私のタトゥーは人目にはつかないところにあるので、温泉とか銭湯なぞに入りたいなぁという思いはあるけれど、帰国の折、大した支障はない。
『蛇にピアス』(金原ひとみ著)という映画化もされた小説がある。タトゥー、ピアス、ボディピアシングなどを題材にした物語で痛みから生だの、愛だのを感じるというような流れ。村上龍氏も『ピアッシング』という小説で殺人衝動と自殺願望の男女の話を書いているが、ピアスやタトゥーは、謎の中毒性があると思う。私の同僚なぞ、オフィスで見える部分にはないが、脱いだら全身タトゥーだらけという人もいる。彼女いわく、「なんか止まらなくなった」だそうだ。
私がタトゥーを入れたのも、そもそもアメリカなんぞで暮らしていると老若男女構わずタトゥーを入れている人が多い。ということから、これまでのガードががくんと下がったのも理由。私の職場はお堅いところであるが、オフィススタッフ5人のうち、ボスも含めてタトゥー入りは4人。ボスなんて50歳超えてから、足の甲のとこに入れていた。
例えば、この記事にもあるように、タトゥーやピアス、ボディアートについて、社会学、心理学などいろんな研究があり、トラウマのせいだとか、「蛇にピアス」の話のように生きる証だとか、「ピアッシング」のように痛みを生と死、形容し難い衝動の引き換えにうんぬんといろんな説がある。
何事においてもそうなんだけど、人にはそれぞれの理由や想いがあるので、そりゃぁ、学術的な意味でのWHY, HOWといった事を突き詰めるのもいいかもしれないけど。大して意味のないものに大きな意味を持たせて物事を複雑化させるっていうのもどうなんかなぁなんてぼんやりと思う。
アルゴは、アルバムを出した時、音楽をあきらめた時、義母を亡くした時、大学を出た時、とかなんか人生の節目的な時にタトゥーを入れている。そういや、入籍した時もいれていた。生きた証なのだという。そういう人は多い。先日、スーパーで見かけたお姉さん(ホットパンツ着用)は太ももにデカい犬と名前、日付のタトゥーをしていた。亡くなった愛犬のメモリアルなのだという。
私は、最初の詩の他に、2つ。全部で3つ入れているが、これといった意味とか特別なきっかけはない。入れた図柄に思い入れと意味はあるけれど。先に挙げた同僚と同様『なんかとまらなくなった』のである。
グリーンカードを取得した折にこのお揃いタトゥーがものすごい効力を発揮したのだけど、それはまた別に書くとして、普段、私のタトゥーを見ることができるのはアルゴしかいないので(自分でも見えないし)、入院なぞした折に、「あら!タトゥーいれてたの!」などとナースやお医者に言われ、あ、そうだわ、入れてたんだった、と思い出す。何度かMRIなぞを撮ったことがあるが、何の支障もなかった。幼き頃から20年ほど、恐るべき熱量と情熱であこがれ続けていたタトゥーだというのに!入れてみると、落ち着くどころか忘れている体たらく。
なら入れなくてもよかったじゃん!という話になるが、それはその通りなのである。そもそも、入れる時はやたら痛いし、入れた後も数週間は手入れが面倒なのである。日焼けのようなもので皮はボロボロになるし、かゆいし、熱いし。迷ってるならやめときな、とは言うと思う。
こう書いていて、あれ?ほんとなんで入れたんだ…?と思えてきたけれど、そもそも憧れの理由も曖昧であり、言葉にすれば「いやぁ、なんかどうしても入れたいって子供のころから思ってたんだよねぇ」としか言いようがない。例えば、私はイクラとちくわが大好物なのだけど、なんでそんなに好きなのか、と聞かれれば、「いやぁ、好きだから好きとしか……」としか言えない。それと同じことである。
嫌いな人や、どうしても受け入れられない人は五万といるだろうし、実の親ですらドン引き、絶縁されたわけだから、阿呆だの、馬鹿だの、反社会だの、色々言う人はいるのだろうし、それはそれで致し方のないことだと思っている。
積極的に見せたりだとか、ひけらかしたり、私の価値観を無理強いするつもりもない。そもそもババァの身体はふくよかになりすぎて(脂肪とたるみ)もう人目にさらしていいものではないのである。
怒られたり、拒否されたら、はぁ、スイマセンっていうしかないし、人様に薦めるわけでもない。痛いし、かゆいし、楽しい経験ではないのである。あくまでも、どこまでも、自己満足、自己帰結で行ったことなのだ。
というわけで、長年のタトゥーに対する狂おしいほどの熱情と執着が落ち着いたので満足しているし、繰り返しになるが若気の至りとか、失敗だったとか、そんな風には思えないのである。
そんな風なので、それを肯とするか、否とるかはあなた次第であり、私はその判断を尊重する(そしてしている。対母親)
あと基本的に(先述した病院とかの場合を除いて)アルゴだけが目にすることができるシロモノなので、二人の秘密というか、ふふふふふ的なところもあるし、アルゴはそのようなところが気に入っているらしいし、一番最初にいれた詩は、相変わらず、私とアルゴの生き方であり、二人でいることの証拠というか、そんなものなので、これから先の20年も、これまでの20年と同じようにこの言葉の通りに二人で生きていきたいなぁなどとぼんやりと思う。
if I could give the world my love,
I would swallow all they hate
私が死んだらさぁ、腰のタトゥー、はがして鞣して額にして、んで、体は荼毘に付してママの遺骨と混ぜて宝石にすればいいよ(そういうサービスがある)と言ったら、アルゴは
if you die, I will kill you and kill me!!!
お前が死んだら、お前を殺して俺も死ぬ!といってたが、いやもう死んでるのやで、先に……と思ったけど、お墓はいらないから、そうすりゃいいぜと思っている。
そのうち、グリーンカードを取得した時の話を書くので、その時にこのお話を引用できればなぁと思っているところである。
蛇足ではあるが。私が他に入れているのは件の詩の上のとこに蓮の花。水上に咲いているのは美しい花だけど、根っこのところは泥水。泥水吸っても強く美しくいたいじゃないというような思い。たぶん、生きていく上では蓮の花みたいに泥水が必要なのよ……的な。そして、青い蝶。オーストラリアど見られる青い蝶。見ることができたら幸せな人生になるらしい。現物を見ることができればそりゃぁ良いが、見れないかもだから入れとこう。幸せに行きたいものだ、的な感じなのである。
(終)