Past Failure Foundation(1)
“I’ve come to believe that all my past failure and frustrations were actually laying the foundation for the understandings that have created the new level of living I now enjoy.” – Anthony Robbins
作家、Anthony Robbinsの言葉 ー 過去の失敗や挫折のすべては、今の私が楽しんでいる新しいレベルの生活を生み出したすための理解の礎なのだと信じられるようになった。
ちょっと前に自殺をした友人のNoteを書いた。実は、私も、アルゴも鬱により既死観念が強かった時期があり、自殺未遂をしたことがある。引用している上の言葉を参照にしつつ、私の過去の大きな挫折について語ろうと思う。
渡米して半年ほどしてから父を亡くした。私は父の遺言により、父の死後もこちらに戻り、院生生活を続けることができた。無我夢中だった。バイオニューロサイコロジーという心理学の分野であけてもくれても実験、研究、そして課題。博士号課程にだって必修科目というものはあるし、私はギリギリで合格した生徒だったので、日々のクラスについていくのも必死だった。
大学の成績はAからDでつけられ、GPA(成績の平均点)は4(満点)~0でつけられるものだが。私のいた博士号課程は、生徒が25人ほど。その全員がオールA、GPA 4.0という中で、私は唯一のAマイナス、GPAにして3.7ポイントという成績なので、ドンケツだったのである。
師事していた教授は世界的に名高い研究者であり、誰もが認めるクレイジーな人だった。おかげ様で、院生活も2年目になるころには私の名前の載った学術論文も8本ほどになっていた。同期の人たちは2年目でも論文なしの人がほとんどだったので、この速度は異常なんである。
睡眠時間はよくて3時間。週末、祝日はほぼなし。朝の6時から夜の8時まで学校にいた。インターンの仕事もあった。もちろん、ずっと英語なので脳みそは常にフル回転だったと思う。
私は意地になっていた。院を卒業したかったし、亡父との約束でもある。何があってもやめられないし、そのためにアメリカに来たのだという意識ばかり強かったから、当時は一緒に暮らしていたボーイフレンドであるアルゴが数年にわたり浮気をしていたことすら気づかなかった。
うまくいっている時は何とかなっていたが、研究、院生活はどんどん、どんどん私の心を蝕んでいった。ついには、教授のやり方についていけなくなった。
もともと持っていたアレルギーとアトピー性皮膚炎は悪化し、顔、首、手足の皮膚は魚の鱗のようにボロボロと剥がれ、皮膚は常に赤黒く、じゅくじゅくした汁がにじみでていた。手のひら、指先の皮膚までずるりと向けていて、コーヒーの入った紙コップすら、熱すぎて持てないほどだった。頭部にもアトピーは出ていて、髪は抜けるわ、べたべたしているわ、挙句、ストレス性の円形脱毛症で二か所ほど禿ができていた。本当に醜い姿だと自覚していた。
胃潰瘍にもなっていた。私に最初に胃潰瘍ができたのは10歳の頃で、それから高校の時にいじめられた時、最初の大学受験に失敗した時、渡米に向けての準備をしている時、と20代にしては胃潰瘍とすっかりお馴染みだったので、あぁ、これはアレだよ。あの痛みだよと思っていたものの、食べては嘔吐、食べずにいれば痛む、無理やり食べればまた嘔吐、繰り返しているうちにゲロには血が混じる、そんな生活だった。
更にその頃、アルゴの浮気が発覚した。とはいえ、その時はすでに3回目(同じ相手)で、詳細はまた書くとして、簡単に言えば私は浮気女にストーカーされ、襲撃され、刃物で切られた。
院でのストレス、恋愛関係でのストレス。先の見えない不安。
それらがマックスになった。とうとうある日、私は実験中にひどい喘息の発作、全身に発疹、結果、アナフィラキシーを起こし同じ研究室にいた同僚が救急車を呼んでくれて運ばれた。
以前、少し触れたが。Laboratory Animal Allergy (LAA)というのがあって、私はいつの間にかそれをこじらせていた。動物実験をしている人たちや世話する人たちが日常的に動物、特にげっ歯類に接することにより起こるアレルギー。幼い頃からアレルギー体質、アトピー持ちだったため、症状は重かった。私はこのアレルギーや喘息の発症は因果応報、それまでやってきた実験に対するげっ歯類からの呪いであると真顔で思っている。
喘息の発作は初めてだった。というか、アレルギーの状態が悪化した挙句に、自分が喘息もちになっていたことすら知らなかった。喘息あるの?ときかれ、いや、ないですよ、と答えたけれど、いや、あるよ?しかも重いと言われた時の衝撃。一発目の喘息発作で死にそうになるというのもすごい話だ。運ばれた時、アルゴには連絡がつかず、呼吸が危なかった私には緊急入院させられた。
こりゃもうだめだ、もう頑張れない、と思った。
でも頑張れないってことはどうなる?馬鹿なんだから、がんばれなくなったらそれでおしまいじゃね?院を辞めて、日本に帰ってそれから?物心ついた時から、心理学の研究者になりたいとずっとずっと望んでいた。就職活動の経験もなければ、そもそも仕事とか今更できる?仕事ってなんの仕事があるの?できるの?やりたいの?
日本に帰ってどうする?どうなる?家族からの期待はどうする?父との約束は?周りの人はなんて思う?そんなことばかりを考えていた。そんなことを考え出すと、博士号課程にいない、博士号をとれない私と言う存在は、ひどくみじめで情けなく、なんの価値もない、という風に思えてきた。
アルゴはどうする?こんな汚い見た目で、浮気相手の女が言う通り、憐憫だけで付き合ってるだけなんだろう。義母やその家族の手前というのもあるだろうし。というか、私がこんな状況にいるのに病院にも来ない。こりゃもう本当に私たちは終わった方がいいのかも。
こんな体のまま、もしかしたら次の発作が来たら死ぬかもしれない。そもそも治る可能性すらない。というか、今回、死んでもおかしくなかった。というか、こんなきったない見た目で生きていくってどうよ、それ。
今でこそ、親がなんじゃ、他人がなんじゃ、自分は自分、などと開き直ってそんなことを言いながら毎日を楽しく愉快に暮らしているが、当時の私は追い詰められていた。20代だったこともある。まだ若く、自意識だって高めだったのだ。致し方ない。
1週間の入院中にカウンセリングを紹介され、精神科にもかかり、投薬が始まった。アレルギー、喘息、そして向精神薬。入院中にカウンセリングをされた結果、自殺願望濃厚と判断を受けたため、入院期間というか、監視期間が伸ばされたのだ。
帰宅してからも私はずっと、ずっと、ずっと、私はダメだ、つまらない存在だとしか思えなくなった。心理学を学びにこの国にやってきて、自分が心理学治療をする羽目になる。なんとという体たらく。1週間は、家で安静にしろと言われていたのでそうしたが、その間もただ、ただベッドの上にいるだけだった。涙すら出なかった。
安静期間終了後、院では、研究室を別のところに変えてもらえないかと動いてみたが、師事していた教授がクレイジーすぎて、彼女に関わりたくなくて断られた。それに当時はすでに博士号論文も半分は書いていたため、やりかけの実験を終わらせなければ、博士号は取れない。でも医者からはもう動物実験は禁止だと言われた。発作で死ぬ可能性があるからね、と。どん詰まりである。
インターンは、教授のゴリ押しで取れた仕事だったから、続けていたものの、それが無くなれば授業料も払えず、生活費もない。またも100%親の仕送りに頼る生活になってしまう。それは避けたかった。もちろん、親に頼めばそれくらいの出費は大丈夫だった。けれど、私は一日でも、一時間でも早く経済的に親から、日本の家族から自立したかった。だから、インターンの仕事にしがみついた。院を卒業できる可能性すら無くなってしまっているというのに。
何とか自分をだまして授業とインターンには行っていたが、過度のストレスによる喘息発作も起こりだした。体はだるく、眠いのに、眠れない。ダメだ、だめだ、だめだ、とまるでエヴァンゲリオンの碇シンジ君のように繰り返し、繰り返し呟き、蹲った。シャワーを浴びる気力もなく、食事をする余裕もなかった。あれほど大好きな酒すら飲む気になれないでいた。
アルゴも一緒に暮らしていたので家にはいたが、顔を合わせる気力もなく、私はずっと自室にこもり切っていた。アルゴは怒ったり、泣いたり、慰めたり、怒鳴ったり、なだめたりといろんなことをしたが、そもそもの原因は貴様にもあるのだ、オメーの浮気と、倒れたってのに連絡もつかず、病院にも来ないようなクソ野郎じゃないか、と言ったところ、放置してくれという私の願いを素直に聞いてくれた。
ネガティブな感情は、おっそろしく重く苦しいスパイラルを生み出す。
抜け出せないのだ。というか、抜け出そうとも思えず、そもそも抜け出す=現状を打破するとは?という感じである。大きな黒い渦の真ん中にいるから、自分がどれだけひどい状況にいるのかすら自覚できないでいた。
水の無い水槽に残された死にかけの魚のような、息苦しい毎日だった。
ある日、私は大好きだったギタリストがそうしたように、ドアノブにタオルを巻きつけて首を絞めつけた。処方されていた睡眠薬をがっつり飲んで、体をぐっと前のめりにして、その人の曲を聴きながら、死ぬつもりだった。
だったのだが……
あまりに強い力でグイグイとタオルを引っ張ったせいか、ドアノブがスコンっと抜けて、勢いづいた私は全力で顔を床に打ち付け、いてぇ、と思ってる間に、反動のついたドアノブがスコーンっと後頭部にぶち当たった。
そうか……この方法で死ぬってのは難しいもんなんだな。かのロックスターはどうやって亡くなったというのだ、と一瞬、真顔で思い、そのまま、バスルームの床にごろりと横たわって、おいおいと泣いた。
生きるのも難しい。死ぬのも難しい。人生はクソだと、おいおいと声を上げて泣いた。
顔面を激しく床に打ち付けたので、鼻血は出ているし、無気力になりすぎていて、掃除もしていなかったバスルームには綿埃があり、抜けた髪の毛が散らばっていて、床のタイルには赤カビがついているのをみて、余計に情けなくなっておいおい泣いた。
何もかにもが情けなく、滑稽で、みじめで、自分がとてつもなく可哀そうで、生きていく意味はないと思えて。
おいおい泣いているうちに、頭が痛くなり、涙と鼻血と鼻水とでびしゃびしゃになって、ひっくひっくと息が詰まり、何がなんだかわからなくなって私は目を閉じた。また喘息発作がでるかもしれない。酸素が薄い?いや、馬鹿め、今頃になって過剰摂取した睡眠薬が効いてきてるんだよ、とぼんやり思いながら、そのまま目を閉じた。あぁ、ドアノブ自殺は失敗したけど、睡眠薬自殺がイケるのか?と思ったのが、目を閉じる前の最後の思考だった。
そんな私を発見したのが、アルゴだった。
彼が何を、どうしたのか。後になって聞いたら、私を発見。義母に連絡。救急車を呼ぶより早いから、背負って救急へ行けと言われそうしたらしい。当時は、大きな病院の真裏に住んでいて、救急まで徒歩2分だったのだ。
で、私は半年の間の短いスパンで、2回目の救急からの入院。目を開けたら白い天井とイエスキリスト付きの十字架のかかる部屋で目が覚めた。
Fuck Jesus......Jesus, don't you hate me?
壁にかかる十字架を見て私はそんなことを思っていた。
(続)
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