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インドでは人を許しなさいと教えるらしい

もう何度目だろうか。
1番仲の良かった友達とまた春に喧嘩した。

喧嘩とも言えない、交わることのない会話だったと思う。

2月に入って数日、それまで普通に毎日のように話していたが、急に連絡が来なくなり、ご飯食べにでも行こうと言ってもスルーされ、素っ気ない対応になってきた。

ここまで話すと彼氏かよと思うかもしれないが、れっきとした女友達である。笑

私の中では
「まあ元々メンタル状況の高低差がある子だから、ここで変に私何かした?と聞いて圧をかけるのもよくないだろう、自分から言うまで憶測で詮索するのはやめよう」と思っていたので、何も聞かず、数日連絡を取るのをやめていた。

しかしながら、「これって多分なんかもう、このまま喋らずフェードアウトする感じだな。」という気配もしていたので、終わるなら終わるで私は曖昧なのが大嫌いなので、直接会って話して真意を聞こうと思った。

「来週の月曜日とか空いてるかな?焼肉食べに行かない?」と言うと「空いてるよー」とだけ返ってきたので、上から目線な奴だなとか思いつつ場所も指定して時間も指定した。

いよいよ当日。そう、今日だ。

行く前になって具合が悪くなるほど眠い、ああやっぱ取り消しにしようかな。。。
と思いつつも、色々な思いを抱えて焼肉屋に着いた。

早速入って、注文をするなり
私から「どうだった?元気だった?」と
まるで洋画の英訳のような挨拶をする。

それから少し話して、本題に切り込む。
「メンタル状況が良くなかったから連絡をとってなかったという理解でOK?私が何かしたというわけではないのかな?きっと他の人とも連絡は取ってなかったんだろうとは思ってたけど。」

とハッキリ聞いた。

すると友達は
「うん、あんまりよくなかったし、ほとんど誰とも連絡取らず必要事項以外は話してない」と言ったので、私は「私のこの対応は間違ってなかったのか…」とホッと胸を撫で下ろした。

自分が何か悪いことをしたかな、と考えたけれど、私は分からなかったし、した覚えはないから、それを聞くのも変だと思って何も聞かなかったんだ。と私が言うと、友達はポツリとこう言った。

「〇〇と旅行に行って、しっかりしてくれよ」とか「忘れ物多くない?」とか言われたのが結構心にズシっときてて、傷ついたと言うか、合わないなあと思ったというか。と、こう言ってきた。


待て待て待て。
その話は一体いつの話だ、1ヶ月前のことだよな…。

確かに言った覚えはあるが、弁解をするとそれには理由がある。

私は旅行に行くためにホテルと飛行機とタクシーの手配までしたので、友達に現地のことは任せていた。
しかし帰り際、乗らなきゃいけない電車は目の前にいたにも関わらず、私がこれなのではないかと提案したにも関わらず、その電車には乗らなかった。

そのおかげで、バス乗り場まで全力疾走し、バスの中では終始吐き気と闘いながら空港に着いた。

そこまでは何も言わなかった。
そしていよいよ搭乗口に行く時、搭乗口がどこに書いてあるか分かりづらいチケットだったというのもあるが、友達がチケットを確認して、私にも確認したのだが、私もサラッとしか確認しておらず、間違った搭乗口に行ってしまったのだ。

搭乗時刻に。間違った搭乗口に。

でもここはどう見ても札幌への搭乗口で、私たちが乗りたい搭乗口ではない。

よく見ると真反対ではないか…。

ついに出てしまった、私の本音。
「しっかりしてくれよ…」というイラついた言葉。

これが全ての始まりだった(らしい)

友達は飛行機にも間に合ったし、なんでそんなことを言われなきゃいけないんだ!私が確認した時にミスに気づかない奴が悪いんだろ!
と言いたかったらしいし、言っていた。

だが、私はそもそも搭乗口には搭乗時刻にいることが常で、搭乗が間に合うか間に合わないかが私の怒りのポイントではなかった。

間に合わないと言うことはありえないから。
搭乗口に間に合ったから、最初は搭乗口を間違えてもいいとはならないはずだ。

私はホテルの予約、飛行機の手配、タクシーの手配、我ながら完璧にしたつもりだ。

だがどうだろう、友達は現地の手配で全てにおいて上手くいかなかった。

期待していたからだろう、上手くいかなかったことに、イラついてしまった。

そうして「しっかりしてくれよ…」という一言を放ってしまった。

当然人だからミスはすることがあるし、それを責めるのは良くない。現に私があまりにも彼女を信じて頼りすぎていた事が最大の間違いである。

ここまでで、私が反省すべき点はおそらく3点ある。

  1. 友達に期待しすぎ、頼りすぎ

  2. 確認のミス

  3. 言わないほうがいい余計なひと言

多分これが私のミス。

それについてはしっかり友達に謝罪をしたが、
そのあとも友達は続ける。

美術館へ向かっていた時、
友達が車の中に財布と携帯を忘れていることに歩いて結構経った頃に気づいた。

最近友達は物忘れが多かったし、本人も薄々気づいてて気にしているようだった。

しばらく歩いて経ってたので、また戻らなきゃいけないと思うと正直言って怠かったし、美術館の閉館までの時間もそこまで余裕が無かったので、また私はイラついて余計なひと言を言ってしまった。

「また?多くない?しっかりしなよ」と。

歩いても彼女はバッグのチャックを開けたままだし、財布が見えた状態で歩く。

なんならデパートでお買い物して自分のバッグは置いて買ったものだけ持ってこようともしていた。
お店の人から電話がかかってきて、バッグを取りに戻ったのだ。

私にとってはそれが目に余る行為だった。

だからそうした本音が出てしまった。

だがそれを1ヶ月も経ってから、
「チリツモで合わないなと思ったから距離を置いた。」

「もう自分から誘うことはないかな。今のところ。」
と言うではないか。

私はイラつきつつも根に持たず忘れていたのに、彼女はそう言われたことに傷ついて、
私の今までの良い行い全てを帳消しにして、自分を傷つける人と認定する事ができるんだ。

へぇ〜と思った。

まあ、沸点なんて分からないので、私にとってそんな事で?と言うことはきっと他の人にとると大事なことなんでしょう。

8年?一緒にいてこれか〜キチーと思った。

人は変えられないし、自分が傷つけられるなら距離を置く。それは正しい。

でも本当に自分だけが傷ついたのだろうか?

私は何も思っていなかったと思うか?

合わなくても受け入れることはできるのでは?と言ったが、
「受け入れることは即ち、己を変えることなのでそれは出来ない。私は変えることが出来ないし、誰からも指図は受けない」と。

そう彼女は言った。

なるほどな、受け入れることは己を変えることになるのかと、私はそういう考えではなかったので、シンプルに勉強になった。

私にとって受け入れる、というのは受け止めるに近いので、誰かの意見を聞いたとて、それに意見を改めるかどうかはまた話が違うのだ。

意見を受け止めたとて、自分が変わる決意をしなければ、自分は変わらないし他人に変えられることはないと思っている。

そもそも他人は私にそんな大そうな影響は与える事が不可能だと思っているので、基本的に意見や考え方は受け入れられる。

そして私は例え嫌なことを言われたとて、その一言と、これまでのその人と過ごした楽しい人生を比べれば、大したことではないのだ。

そのひと言が私の基準ではないから、怒っても数十分だし、引きずることはない。掘り返すこともしない。

ただ、これは私の価値観であり、これは私にとっては正しいが、誰かにとってはそうでないのだろう。

タイトルに書いているが、
「人を許しなさい。」
インド人でもない母の教えはこれだった。

人を憎むこと、恨むこと、排除すること。

悪いことではないけれど、それに体力を使うのはもったいない。

あなたは知らず知らずのうちに罪を作って迷惑をかけているのだから、人が嫌なことをしてきたり言ってきたりしても許しなさいと、私の母は言ってきた。

寛大な心で穏やかにいることの重要性を私は教わった。

人はしてもらった事より、
してあげた事をよく覚えているし、
良いことよりも悪い事をよく覚えているし、
自分は許して欲しいと、ありのままの自分を受け入れて欲しいと他人に願いつつ、
他人は許さないし、他人を受け入れないし、
自分は変わらない。

私を彼女は嫌ったとしても、私は彼女に対して悪感情はない。一番仲良くしてくれた友達として、感謝しかないし、出来れば私の至らない点をいつか許してくれると嬉しいなと思う。

彼女の心が一生晴れる事はなくても、幸せを祈るし、日々が楽しく過ごせればいいなと思う。

私もそうでありたい。

人は許し許され生きていく。

至らない私を許して、叱咤激励してくれる人を大切に、これからも頑張ろうと思う。

ただ、一つだけ悲しかったのは、
今年も桜の季節に喧嘩して、桜を見る約束を守れなかった事。
キャンプ道具を共同購入して一回しか使わなかったからお金を返した方がいいかと聞いたら、
「返してくれるの?」と食い気味で聞いてきたところ。

傷ついたというより、悲しかった。
もうキャンプをする事はないのだな、
桜も見にいけないのだな。

私がまいた種子だが、私は育てたつもりはない。
どうか育たないでほしいと願っていたが、
それももうとっくに遅いようだ。

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