シリーズ「霊の中に生きる」 No.5人の霊(5) ⑩
●聖書の最高の教えは『霊の中に生きる』ことです。
エルサレムをアッシリア軍が包囲したとき、ユダの王ヒゼキヤは何をしていたのでしょうか。
以下の二つの箇所から見てみることにしましょう。
①Ⅱ列王記19章5~7節、32~36節
②箴言25章2節
【新改訳2017】
Ⅱ列王記19章5~7節、32~36節
5
ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、
6 イザヤは彼らに言った。
「あなたがたの主君にこう言いなさい。
『【主】はこう言われる。
あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。
7
今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』」
32
それゆえ、アッシリアの王について、【主】はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。
33
彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない──【主】のことば──。
34
わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。』」
35
その夜、【主】の使いが出て行き、アッシリアの陣営で十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな死体となっていた。
36
アッシリアの王センナケリブは陣をたたんで去り、帰ってニネベに住んだ。
【新改訳2017】
箴言25章2節
事を隠すのは神の誉れ。
事を探るのは王たちの誉れ。
箴言25章は1節に、
「次もまたソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである。」とあるように、ソロモンの箴言の補遺として編集されているようです。
そしてその冒頭に「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。」とあるのです。
このことばには深い秘密が隠されています。
反意的パラレリズムです。
神は隠し、王たちはその隠されたことを探り、そして発見するからです。私たちも、キリストにあって王なる祭司としての務めが与えられているのです。
ヒゼキヤは南ユダ王国の13番目の王です。彼は祭司と書記官にソロモンの箴言を書き写すように命じました。
当時、ユダは北から強力なアッシリアの侵略を受けていた時代です。すでに北イスラエルの首都サマリアはアッシリアによって陥落していました。
ユダのエルサレムも、センナケリブ率いるアッシリアの大軍に包囲されるという危機的な時代でした。
(事実、3回にわたる攻撃を受けていました)
そんな状況下で、ヒゼキヤはなんと箴言を編集し直す作業をしていたのです。
“そこには霊的に重要な意味があります”。
神の代理者として立てられたヒゼキヤが、戦いにおいて優先したことは神のみことばでした。
隠された神のみこころを探し出すこと、神のみことばをもって勝利すること、それが神の代理者としての王の務めだと考えたのです。
ヒゼキヤ王の父アハズは敵の侵略から守るために神に頼ることをせず、異邦の国に助けを求めました。
預言者イザヤの「神にのみ信頼して静かにしていなさい」というメッセージを受け入れませんでした。
一時的には解決を得ましたが、結果的にはさらなる苦しみ(貢物をすること)が増しました。
しかしヒゼキヤはイザヤの指導を受けながら、アッシリアの脅威に屈することなく、神にのみ信頼し、神のみことばに堅く立つことが勝利の道だと確信したのです。
いつの時代でも失われた神のことばを回復することが霊性の回復の道であり、唯一の勝利の道です。