私のペンテコステ2023(その1)
私のペンテコステ2023(その1)
「我は火を地に投じるために来たのだ。この火すでに燃えていたならと、どんなに願っていることか!しかし私には受くべき試練のバプテスマがある。成しとげられるまではどんなに思い迫ることだろう」
ルカ12.49~50
これイェシュア、キリストの悲願霊願である。
キリストは聖霊と火によってバプテスマし給うと言う。
聖霊に触れずして私たちの罪状が滅却されることもない。
「見よ。この火なんじの唇にふれたれば汝の悪は除かれ汝の罪は潔らる」
イザヤ6.7
この神エホバからの直接召経験を青年イザヤはなし預言者たる召命感を自覚した。
「柴に火が燃ゆれどその柴燃えぬ」神の人モーセはミデアンの荒野で四十年、羊飼いをしながら世を捨て切って生かされつつあった、そのカイロスの時、異象の神秘に自現し給うエホバを見神したのである。
出エジプト記3.2
「神の聖前には焼き尽くす火がある」
詩篇50.3
火の後に静かな細き声をエリヤは寂聴した。
聖霊は盗人のように来たり給う。
主イエスの昇天後に弟子たちは心を一つにしてひたすら祈祷に努めた時、驚くべし
「天より火の如きもの舌のように現れ各人の上にとどまるや彼ら皆、聖霊に満たされ御霊ののべしめるままに異なる言葉にて語り始めた」
行伝2.3~4
これぞペンテコステの朝、聖霊降臨の日の霊火霊風である。これによってキリストのエクレシア〈召会〉の誕生となったのである。
神の霊火にふれて誰でも自我は一新され霊性は換骨奪胎されて人間革命が引き起こされる。
行伝2.1〜4
主イエスの十字架の日に、その膝下から逃げ出した弱きペテロも、疑い深きトマスも聖霊の火に剛き使徒と一変したのである。
ペンテコステは今も繰り返す
〈その内容において今日にも繰り返す〉
我らもこの経験を願い祈らねばならない。
今や十字架かかりイェシュア、キリストは復活され天に昇られ天の父なる神の右に座し給い聖霊となって勝利者キリストとなって、ご自身の愛する者たちに降り給う。
主は聖霊となって降り給う。
生命を与える霊となって降り給う。
このことの故に主は十字架に架かられた。
ペンテコステの出来事は
今のカイロスに生きる
私たちの生きた事実である。
現実である。真実である。
「エホバの言わが心にありて火の我が骨の中にとじこもりて燃ゆるが如くなりたれば忍ぶにつかれてたえがたき」までに聖霊の火よ、我が命を燃焼させ、主イエス、キリストの悲願霊願をこの身に成就なし給え。
エレミヤ20.9
私れらは黙々として神の祭壇に捧げられる燔祭の小羊であることの光栄に殉じよう!
「願わくば貴神(あなた、聖霊)が
天を裂きて降り給え、
火の柴を燃やし火の水を沸かす如く」
イザヤ64.1~2
ペンテコステの御霊は我らにキリスト、イエスの御心を使命として成就させ給う。
エリヤの火よ我が幕屋に降り
霊のリバイバルを、おこし給え!
「火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャをとりかこみ守護したように」我らのまわりを今かこみ給え!
列王下6.17
私たちの日本に求められることは
ただ、この一事です。
ペンテコステの御霊です。
またネブカネザル王に反抗した三人の若者は火の燃える炉の中に投げ込まれたが火の中を自由に歩いて何の害も受けず第四の人、神の子と偕にあったという。
ダニエル書3.25
聖霊は火です。人心をも焼き尽くす火です。
聖霊のバプテスマは火のバプテスマです。
主よ、たとえ烈火の如き試練が身を襲うとも、この聖霊のバプテスマに、火のバプテスマに我らを在らしめ給え!永遠から永遠までバプテスマし給え。
貴神の御霊の愛、聖霊の愛にて!
聖霊に触れなければ
キリストを知ることもありません。
私たちはこのキリストの霊力に満ち満ちた原始キリスト教時代、初代教会時代を潤した神の恩恵、このペンテコステの霊、聖霊のバプテスマに是非とも浴したい。
火のバプテスマに古い自我を
焼き尽くされたいのです。
私たちはこの聖霊の熱い臨在において、二千年前のペンテコステの体験をもう一度体験し、あの十字架から背を向けて逃げ出した弟子たちが浴して神の戦士として立ち上がった恩恵に与るのでなければいけません。
聖名によって