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【エッセイ】〈戦争と平和〉に「へいわとせんそう」を
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
と言いつつも、いろいろなことが立て続けに起こった2024年。これだけ色々なことが起こると、どうしても出来事一つひとつに野暮な意味付けをしたくなる。
意味付けは不安だからしちゃうらしい。
災害にしたって事故や事件にしたって、もちろん良い事だってそれぞれの出来事はひとつの単体として発生する。もちろん人為的に関連性があるものもあるだろうが、だいたいが完結した出来事として発生する。それを客観的に眺めるとより偶発的に起きたように見える。何の脈絡もなく突然起きたみたいに。
そう見えると、人間は不安になる。意味が見出だせないから。だから人は出来事に意味付けをする。自分の認知の範疇に当てはめて理解しようとする。そうしてひとつの安堵を得る。
僕もできるならそうしたい。
いや、僕は比較的意味付けをして考えようとする癖がある。でも必要ないんじゃないかなとも思う。今目の前で起きていることは僕らの理解の範疇を超えている。良い事もヤな事も。「わー」っとやって来るあれやこれやを、一人ひとりの立場であるがまま受け止めていくことが、ひとつ大事なことなんじゃないかと思う。もちろんその後の反応もそれぞれでいい。どんと受け止めてもいいし、逃げたっていい。
誰かが大変だからって、自分が幸せになっちゃいけない理由はない。
逆もしかり。
今年は「平和」についてより考えていきたいと昨年末くらいから思っている。「平和」に対して芸術は文学は何ができるのか。ほんとうに何かできるのか。先人が語り尽くしたことに右倣えでなく、36歳の自分自身の今の考えをまとめたいと考えはじめた。
きっかけは谷川俊太郎が文を担当した絵本「へいわとせんそう」である。ロシアのウクライナ侵攻が激化した頃、娘にプレゼントした。それを昨年の12月頃になって、娘が自分で読みだしたのだ。彼女が音読するのを聴いて、彼女が質問してくるのに答えて「平和」について改めて考えさせられた。それは破壊と殺戮による喪失が見せた在りし日の幻影ではなく、いま自分の目の前に広がる平和な生活を通して見る「平和」である。
トルストイの作品の知名度も相まって〈戦争と平和〉というフレーズをよく耳にする。しかし谷川は「へいわとせんそう」とした。〈戦争と平和〉と〈平和と戦争〉はぜんぜん違う。と思う。
順番によって意味が大きく変わる。〈戦争と平和〉であれば「戦争」がまずありきで、その対概念として「平和」があるように読める。僕らの生活にはまず「戦争」「争い」がありきなのだろうか。そうであってほしい人がいることは理解できる。でもそれは「戦争」ありきで得をする一部の人に限られるんじゃないか。
僕らの生活には間違いなく「平和」ありきだし、そうあってほしいと思いませんか。
「平和」があるから、その対概念として「戦争」が生まれてきてしまう。それをどうおさめるか、どう食い止めるか。そのために文学は何ができるか。たとえ破壊と殺戮という最悪の形をとってしまった後でも文学に何ができるのか。この小さな食卓の「平和」に文学は何を語りかけるのか。考えていきたい。
2024年は歳男です。
今年もどうぞよろしくお願いします。