浅田彰『構造と力』と河口龍夫
2008年1月11日付けで、第一詩集『干/潟へ』を上梓し、浅田彰さん(「さん」づけなどおこがましいのですが)へも版元の思潮社様を通じて謹呈させていただくと、早速、1月25日の日付のある絵葉書の礼状が送られてきました。「精密に構成された美しい詩集をどうもありがとうございました。」と綴られた、河口龍夫さんの絵葉書『関係—時のフロッタージュ 第三期始新世の水鳥の足跡 2007』でした。遥か雲の上の上に住まわれている人と思っていたので、「‘08-01-25 Kyoto」と記された葉書に、驚喜しました。以来、この絵葉書は「宝物」です。
浅田さんといえば、『構造と力——記号論を超えて』(勁草書房、1983年)。その後すぐに『逃走論——スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房、1984年)、『ヘルメスの音楽論』(筑摩書房、1985年)と立て続けに出版され、時代の寵児と呼ばれるにふさわしい人でした。寡聞にして、その後、単著の発行を知らないのですが、おそらく浅田さんは多忙を極める大学の教授職の裏で、ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を継ぎ超える哲学的書物やベンヤミン『一方通行路』を継ぎ超える詩的書物を書かれているのではないかと想像しています。
今回、読み返そうとしている『構造と力――記号論を超えて』(中公文庫)ですが、20代の頃は、この本の歯切れよい文体の疾走感に魅了され、字面に泳ぐように視線を這わせ、読んだ気になっていました。今回、再読を始めると、「序にかえて」はすんなり読めたものの、「I 構造主義/ポスト構造主義のパースペクティヴ」の冒頭から躓く。「はじめにEXCÈSがあった」。こんなはじまりかただっただろうか。「EXCÈS」とはフランス語で「過剰」の意味。「はじめに「過剰」があった」とはどういう事態なのか。きちんと読み返すには、ずいぶん時間を要するように思います。むしろ若い頃の、疾走感に涵るような読み方がこの本には適しているのではないか。
浅田さんの絵葉書ではじめて知った河口龍夫さんは、1940年神戸市生まれ、浅田さんは1957年神戸市生まれ。17歳ほど河口さんの方が年上だが、お二人とも神戸生まれ。私は但馬の田舎の生まれですが、同じ兵庫県ということで親近感がわきました。その後、2008年6月12日(木)から7月13日(日)まで、栃木県の宇都宮美術館で、「無限への立ち位置—河口龍夫の1970年代」という展覧会が開催され、6月15日(日)の午後2時より、河口さんの講演会があるというので、車で出かけることに。宇都宮美術館は広々とした公園の一画にあり、妻と子供たちが公園で遊ぶ間、一人で講演会に参加しました。スライドを映しながらの講演会で最も印象的だったのは、河口さんが若い頃に描かれたという自画像のこと。自画像と言えば、鏡に映る自分の顔を描くというのが普通でしょうが、河口さんの自画像は、白い紙のほぼ中央あたりに、鉛筆でぼやーっと影のようなものが薄く塗られているだけでした。なんと目線を下げて見える自身の鼻の頭を描かれたということでした。目の付け所が普通とは違うと思いました。この展覧会では、初期の代表作《関係—エネルギー》(1972年)をはじめ、石を貫く蛍光灯の作品《石と光》(1971年)、銅板を腐食させた《腐食(銅の星)》(1975年)、鉛や鉄などを用いた多彩な70年代の作品群が展示されており、初めて体験する河口作品に感動しました。これも浅田さんから頂いた絵葉書のおかげです。ありがとうございました。