雲Nubes_2016.6.25
noteで雲の写真集『雲Nubes』をつくっています。
▼本物の雲もいいが、わたしは雲の写真を眺めるのも好きだ。手を加えられていない写真がそのまま抽象芸術に昇華した感じがする。自然を記録し、同時にそのときの感情を表現したものといってよいのではないだろうか。
アメリカの写真家アルフレッド・スティーグリッツもそう感じていた。スティーグリッツは1922年に、「等価物」とのちに名づけた一連の雲の写真を撮りはじめ、雲に芸術的価値を見出して、雲だけの写真を撮影した最初の写真家になった。等価物とは、高コントラストのモノクロ写真だ。初めの数年は風景写真もあったが、1925年以降、スティーグリッツはカメラを空に向けて雲だけをフレームにおさめた。彼は雲の写真を自分の心の状態だと考えていた。「わたしは生命の姿を想像する。そしてその等価物を探そうとしている」(†Stieglitz, Alfred : Letter to J.Dedley Johnson, 3 April 1925.)
——ギャヴィン・プレイター=ピニー『「雲」の楽しみ方』桃井緑美子(るみこ)訳、河出文庫、2017年1月20日 初版発行
▼抽象芸術(スティーグリッツは「表現の新しいメディア——真のメディア」と呼んだ)への情熱は、写真を芸術の一形態と見なすことへとつながった。二つは対立するものに見えるかも知れない。芸術はリアリズムを否定してこそ前衛たりうるが、写真は本質的にとりわけ具象的だ。等価物シリーズの雲の写真には、スティーグリッツがこの対立をいかにして解決したかが表われている。雲は自然の抽象芸術——空の気分——であり、写真で感情を表現するための完璧な被写体なのだ。「わたしはそれまで誰もしなかったことをした——そのアプローチはときとして音楽に見られる」とスティーグリッツは友人に書いている(†Stieglitz, Alfred : Letter to Hart Crance, 10 December 1923.)
「わたしは雲を通じて人生哲学を書きとめようとしたのだ。わたしの写真が被写体によって成立するものではないこと、つまり特別な木や顔や室内、あるいは特別な権利に頼ったものではないことを示そうとした。雲は誰にでも手が届く。いまのところ税金もかからない」(†Stieglitz, Alfred : ‘How I Came to Photograph Clouds’, Amateur Photographer and Photography, 19 September 1923.)
——同書。
スティーグリッツの言う「被写体によって成立するものではない写真」とはどういうものか。ある雲にレンズを向け、フレームを調整してシャッターを切る以上、雲はれっきとした「特別な被写体」だと言えるのではないか。
雲が「写真で感情を表現するための完璧な被写体」という著者の考えにも首を傾げざるをえない。私は日常的な喜怒哀楽の感情など、雲に投影したりしないし、できない。そのようにして雲を眺めた覚えもなければ、都合よくそんな雲が空に浮かんでいた試しもない。今朝はなぜか無性に寂しいから寂しげな雲を探そうとした覚えもなければ、寂しい気持ちを抱えて空を仰ぎ見て、都合よく寂しげな雲が空に浮かんでいた試しもない。「おーっ、えぇ雲、出とうなぁ」とあわててデジカメやスマホのレンズを向けるとき、私はむしろ雲の方からちょっとした気分の高揚や畏怖にも似た感情などを喚起されている。「えぇ雲」と感じることに私の好みや気分が反映されているとしても。
生成し、絶えず変化し、消えてはまた生まれる雲の一瞬の形姿や色彩に、「おーっ」と感嘆し、その不思議さに見惚れるばかりだ。スティーグリッツの写真も、それが「生命」と“Equivalent”なのだとしても、彼の「感情表現」だとはいえないのではないか。雲は人間の存在や感情など感知しないし、超然と私たちの遥か上空を浮遊しているだけだ。もっとも雲の一瞬の形姿や色彩に、自分の弾んだり沈んだり浮き立ったりする気持ちを投影することは人の自由だし、私たちの感情の起伏やうつろいは、空の雲の起伏とうつろいに、よく似通っているとは思うが。