賢治と嘉内(中編)
岩手山登山と電信柱
出会いから1年後の大正6年、賢治と嘉内を含む4人が中心となって文芸同人誌『アザリア』創刊。その夏、二人は岩手山に登る。山頂で日の出を迎えるため、夜中、松明を手に麓を出発。柳沢の放牧場のあたり、柏原にさしかかったとき、嘉内が夜空を振り仰ぐ。嘉内の短歌。
柳沢のはじめに来ればまつ白の/銀河が流れ星が輝く
照しゆく松明の火のあかるさに/牧場の馬は驚きて来る
柏原に至ったとき、不意に松明が消えかかり、二人は代わる代わる松明の熾(おき)に息を吹きかける。賢治の短歌。
柏ばらほのほたえたるたいまつを/ふたりかたみに吹きてありけり
天の川さざめく夜。トルストイや釈迦のように世の中の人を救う道を二人で歩もうと誓い合う。山頂で仰ぎ見る輝かしい日の出が二人の顔をあかく照らす。
同年7月の夏休み、賢治は旅先の種山ケ原で見た電信柱を短歌に詠む。
よりそひてあかきうで木をつらねたる/夏草山のでんしんばしら。
嘉内の甲府中学時代のスケッチ帳には、電信柱の絵があった。電信柱を絵の題材として選ぶことは珍しいのではないか。嘉内のこの絵に刺激されて、賢治が描いたのは、学帽を被って歩く黒ずくめの電信柱。先の短歌はこの二枚の絵に因む。
二人の電信柱の絵は、ブログ「みちのくの山野草」に掲載されている。
「よりそひてあかきうで木をつらねたる/夏草山のでんしんばしら」とは、賢治と嘉内の二人を表している。
突然の別れ
そんな二人に訪れる突然の別れ。大正7年2月発行の同人誌『アザリア』5号に掲載された嘉内の散文「社會と自分」が思わぬ事態を引き起こす。「危険な虚無思想の持ち主で、皇室に異を唱えている」と学校側に判断され、嘉内は2年生の3学期に退学処分となる羽目に。嘉内は山梨に戻り、以後、3年4か月の間、二人は会うことなく文通を重ねた。嘉内宛ての賢治の手紙が山梨県立文学館に保管されている。その数、73通。内56通が、嘉内退学後のもの。「ともにしっかりやりませう」と20回も繰り返し書かれた手紙、表と裏の両面を「南無妙法連華経」の文字で埋め尽くした手紙など、異様な気配が漂う。また、「柏ばらほのほたえたるたいまつを/ふたりかたみに吹きてありけり」と短歌に詠んだ岩手山登山の様子が幾度となく繰り返され、大正9年の手紙では、「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな」という悲痛な叫びが記される。
再会と別離
嘉内が去り、3年が過ぎた大正10年、賢治は日蓮宗系の宗教団体の奉仕活動のために、東京本郷菊坂に下宿。そこに嘉内から葉書が届く。「軍隊に志願して1年、現役除隊となったが、今度は見習い士官として応召し、7月1日から東京の兵舎に入営した」という報せ。賢治はすぐさま会いたい旨を返信し、7月18日、上野帝国図書館(現・国際子ども図書館)の3階、閲覧室にて再会に至る。
再会の模様を書き残した賢治の文章――「さうだこの巨きな室にダルゲ(嘉内を指す)が居て、こんどこそもう会えるのだ。おれはなんだか胸のどこかが、熱いか溶けるかしたやうだ。大きな扉が半分開く。おれはするっとはいって行く。部屋ががらんと冷たくて、猫脊(ねこぜ)のダルゲが額に手をかざし、巨きな窓から西ぞらをじっと眺めてゐる。ダルゲは陰気な灰いろで、腰には厚い硝子(がらす)の蓑(みの)をまとってゐる。ダルゲは少しもうごかない」。
その日の嘉内の日記には「宮澤賢治/面会来」と記された後、大きく「×」印で抹消される。
この再会で、二人がどのような会話を交わしたのかは不明ながら、互いに齟齬をきたしているのは明らかだろう。特に「百姓こそ人間のあるべき姿」だとしたかつての嘉内は、既にして「軍人嘉内」となって、「農への炎」を消している。賢治は、岩手山で消えかけた松明の熾を吹いたたように、嘉内が消してしまった「農の熾」に息を吹きかけようとしたのではないか。「硝子の蓑」とは、嘉内がすでに水をかけてかき消した「農の熾」の幻影、賢治が嘉内に見た希望的幻影にほかならない。この後、二人は二度と会うことはなかった。(※このあたりはDVDを見た限りでの私見。嘉内のその後は、Wikipediaを参照。「農への炎」を消したわけではなかったこと、賢治を拒絶したわけではなかったことがDVDの最後でわかる)。
この時期の作と思われる賢治の詩の断片(題名なし)。
ひたすらにおもひたむれど
このこひしさをいかにせん
あるべきことにあらざれば
よるのみぞれを行きて泣く
『春と修羅』
大正10年12月、賢治は花巻の稗貫(ひえぬき)農学校の教師となり、化学や農業実習を担当する。大正11年4月、花巻から汽車で盛岡へ、そこから夜通し徒歩で外山高原へ。なぜ外山高原を訪れたのか。
上野帝国図書館で嘉内と別れてすぐ、賢治は「純黒と蒼冷」という二人の若者の対話劇を書き、嘉内がモデルと思われる若者に「外山高原へ行って開拓をする」という台詞を語らせている。幻の嘉内、「農の炎」を燃やしたかつての嘉内に出会うため、賢治は、岩手山を遠望できる「外山高原」を『春と修羅』の舞台とする。
詩「春と修羅」の冒頭
心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
「諂曲模様」とはどういう意味か。賢治が熟読していた『妙法蓮華経』には「諂曲(てんごく)」の文字に「ヨコシマ」とルビが振られており、「諂曲」とは即ち「邪道」の意。晴れやかな春の外山高原が、賢治には異様な邪な情景に見えていた。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)しはぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
「修羅」については、日蓮のある本に、「貪るは餓鬼/愚かなるは畜生/邪(よこしま)なるは修羅」とある。賢治は自らを「邪道をゆく者」と把えている。
まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
日輪青くかげろへば
修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす
気層いよいよすみわたり
ひのきもしんと天に立つころ
草地の黄金(こがね)をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
(まことのことばはここになく
修羅のなみだは土にふる)
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
このからだそらのみじんにちらばれ
修羅の賢治は「微塵」となって空に散った。釈迦は言う。「無限に広がるこの三千大世界、即ち宇宙は微塵によってつくられている。この宇宙のあらゆるものは微塵から生り微塵に還る。即ちすべては私の子なのだ」。
(中編了)
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