「鶺鴒一册」08
「鶺鴒一册」08
鶺鴒がヨウシュヤマゴボウの果苞を啄(ついば)む/
/頬から咽喉(のど)/
/咽喉(のど)から襟/
/ベタシアニン色素の赤紫が散(ち)り滲(し)み/
†白と黒の(この)鶺鴒は 時に自らすすんで赤の飛沫を浴び 校閲ないしは改竄される 染み着くそれらを濯ぐため 遠く川瀬のあのsesëragiに ふたたび帰省を褶(かさ)ねなければならないというのに
このページが書けた時もとてもうれしかった。「ヨウシュヤマゴボウ」「ベタシアニン色素」は、かつて朝日新聞1面に連載されていた湯浅浩史さんのコラム『花おりおり』で知った。花のこととそれに纏わる植物学や化学、地学の知見、古典のことなどを短い文章に凝縮されたコラムで、毎朝、愛読していた。時折、切り抜いてはノートに貼っていたはずだが、そのノートが見つからない。高崎市立図書館で、朝日新聞社発行の『愛蔵版 花おりおり』(湯浅浩史 文 / 矢野 勇 写真)が5巻全部揃っていたので、借り出した。「ヨウシュヤマゴボウ」は2001年5月1日から2002年4月30日までのコラムを収録した第1巻の10月の花の17番目(p.113)に掲載されてあった。
▼ヨウシュヤマゴボウ ヤマゴボウ科
見れば一度で目に焼きつこう。茎が赤く、高さは2メートル、葉は長さ20~30センチにもなる大型の多年草。果実は黒く熟し、直径8ミリほどで数十が穂状に鈴なり。つぶすと鮮烈な赤紫の汁が出る。ベタシアニン色素を多量に含み、昔は赤インクに。ヤマゴボウ科で食べると有毒。漬物の山ごぼうはキク科で縁遠い。
もちろん実際の鶺鴒は、この黒い実を啄んだりはしないはずだが、私が紙の上やモニター上に発生させようと試みていた鶺鴒は、自らすすんで私の「朱入れ」を受け入れながら、遠い生まれ故郷の川に戻って水浴びし、もとの姿にかえろうとする、というようなイメージを書いたページだろうか。
40年来のつきあいになる友人で詩人、SSW(singer-songwriter)の川畑battie克行さんが、昔、『干/潟へ』所収の「欄/干」の原型となる原稿を読んで、「瞬時的推敲」という評語をくれた。このページを書くのにも何度も「瞬時的推敲」「瞬時的朱入れ」を繰り返している。
ここで、2006年12月16日、東京市ヶ谷のホテルで開催された「思潮社50周年記念現代詩新人賞」受賞式での挨拶文(2007年『現代詩手帖』2月号掲載)を引き写しておこう。
▼薄井 田舎の川沿いの道(※実際には、妙高山の山小屋へ向かう道や群馬県の吾妻渓谷沿いの道など)を車で走っているとき、鶺鴒が一羽すっと前に現れて、車を先導するように飛ぶことがありました。あまり横にぶれないで、不規則な上下動を繰り返すような飛び方で、ほんの数秒の出来事でしたが、その鶺鴒の飛び方がとてもきれいで、その飛翔と飛行跡を言葉に、書いてみたいと思って書きはじめました。それをあるひとに話したところ、どうしてそんな何気ない単純な感動が、あんなに難解で読みづらいものなってしまうのかと問われて、即答できませんでした。言葉を書くという作業は試行錯誤の連続で、中断したり、失敗や挫折の繰り返しです。そういった失敗や挫折の痕跡を、書いたものから払拭できないし、あるいはそういった失敗や挫折こそがある幸運をえて、詩と呼ばれる領域に昇華してゆくように感じる瞬間もあります。私にとってそのような瞬間は貴重でありがたいことですが、そのように書かれた言葉はほかのひとの理解を拒んでしまうだろうと思います。ただ詩とはそういった理解を超えていくものだと思うので、これからも試行錯誤と中断、失敗や挫折を繰り返しながら、書いていきたいと思います。ありがとうございました。
「鶺鴒一册」05で触れた詩誌『ガニメデ』Vol.43(2008年8月1日発行)所収の小笠原鳥類さんのエッセー「動物、博物誌、詩―薄井灌『干/潟へ』、鶺鴒の愉快な冒険」でも、このページについての言及があり、こう書かれている。
▼このような部分を見ていると、この本で、鶺鴒が愛されている、と思います。実際のセキレイという鳥も、鶺鴒という漢字で書かれた単語も(区別されずに)。鶺鴒と読者の愉快な冒険。ややアニメのようであるのかもしれないです。ヨウシュヤマゴボウ、ベタシアニン、という、あまり見たことがない、やや長くて、変化のあるカタカナの単語が、とても楽しいものとして見える。彩り、「色素」。
たいへんうれしい言葉でした。
そういえば、「鶺鴒一册」02で書いた「ノジギク」のことも、朝日新聞連載の湯浅浩史さんのコラム『花おりおり』で読んでいたことを思い出し、借りた本の索引を調べると、こちらも『花おりおり』第1巻に掲載されていました。「鶺鴒一册」02を編集・更新しておきます。
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