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「電子の森」と「彫刻の森」
昨年5月13日(土)、東京のアーティゾン美術館で《DUMP TYPE 2022:remap》展を観た後、帰路の途中、埼玉県立近代美術館で《戸谷成雄 彫刻》展と、一日に二つの展覧会(両展とも会期終了前日)を観覧し、心地よく疲れた思い出を記録しておきます。まずはアーティゾン美術館《DUMP TYPE 2922:Remap》展から。
アーティゾン美術館《DUMP TYPE 2922:Remap》展
高崎線の新町駅から朝8時前の普通列車に乗り、10時前に東京駅着。地下道を直通でアーティゾン美術館まで行けばよいものを、八重洲口で地上に出てしまったため、どの道を進めばいいのか迷ってしまい、再び地下道へ戻って、偶然見つけた喫煙所でタバコを一服、気をしずめて地下街の地図を頼りになんとかたどり着く。
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私が東京にいた1980年代には「ブリジストン美術館」だった。昔、一度だけ訪れた記憶がある。「ARTIZON」(アーティゾン)とは、「ART」(アート)と「HORIZON」(ホライゾン:地平)を組み合わせた造語だとか。
エントランスでチケットを購入し、エレベーターで6Fまで昇る。ホールの隅に、《ソノトキ音楽ガキコエハジメタ》という彫刻作品が光の海に浮いているようにあった。
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展覧会入口には坂本龍一への追悼文——。
中へ入るときわめて暗い。まず壁際にアクリル盤のような半透明のレコードが回転するターンテーブルが光の中に。音楽とも雑音ともいえない音が鳴っている。1つ、2つ、3つ……、人の話し声が混じるものもある。会場全体にも電子音楽のような音が低く響いている。
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(Analog record playback system)
赤い光がこぼれる入口から広い方形の部屋へ入ると、中央の中空に四角い電子パネルが浮いている。内側の壁面には赤い英文の文字の帯が左から右へ、途切れ途切れに流れている(これは4つある)。中央の中空の電子パネルの図像は、簡略化されたアメリカの地形図か天気図のようなものからバーコードのような縞模様や幾何学的な図形へと刻々変化する。その真下に同形の四角いガラスがあり、覗き込むと、上の電子パネルの図像が、ガラスの下に掘り込んだような立方体の底に写り込んで変化しているように見える。誰もそのガラスの上には立とうとしない(観覧者は大勢で、特に若い女性が多かった。屈んでガラスには触れてみたけど、中に踏み込む勇気はなかった。多分、下に写る影像の陰になるだろう)。
この部屋を出たり入ったり、うろうろして幾つものターンテーブルを覗き込んだり。そのうちに暗がりの先にもう一つ部屋があることに気づき、そちらへ。こちらはすごく面白かった。電子パネルを内側に向けてつないだ四角柱が中空に浮いていて、四角柱の空洞の内部を英語の電光文字が横に上下に浮遊するように流れている。ところどころ読める単語もあるが、すぐに素速く横に流れて消えたり、強く発光したりする。やがて四角い横の赤線が上から下へ流れたり、縦の一本の赤線が周囲を巡ったりすると、赤線に触れた文字は一瞬で発光する。ここでは観客は四角柱の中へ踏み込んで、上を見上げている人ばかり。下への投影がないから安心。人が多くて、なかなか中へ入れない。先の上下の投影作品とは対照的。
また戻って、ぐるぐる会場を巡ったり、行ったり来たり。電子的で、コンピュータを駆使した作品だけれど、ここを歩き回る私の動きは、暗い森の中をうろつき回る動きと同様ではないか、音楽ともつかない、ひたひたとはびこる音の蔓も、森の息遣いそのものではないか、と思われた。
DUMP TYPEの抽象の森をさ迷った後、東京駅から北浦和駅へ。埼玉県立近代美術館《戸谷成雄 彫刻》展。
埼玉県立近代美術館《戸谷成雄 彫刻》展
こちらは圧倒的な物質的具象の森。だけど、この森は私が子どもの頃に分け入った森とは全く違う。ここは縄文の森、異界の秘教の森、樹霊の森、あるいは森の残骸――。畏怖の念が生まれる。だとすれば、《森》の奥に置かれた《地霊》作品は、樹霊が引き抜かれた痕跡に籠る土霊(根霊の痕跡)か。ガラスで封印されている。
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戸谷さんの《森》作品を初めて見たのは、もう30年以上も前、渋川のHARA MUSIAM ARCでだった。鳥肌が立った。購入していた日灼けした図録を引っ張り出す。《A Primal Spirit―Ten Contemporary Japanese Sculptors》(1990年)という展覧会で、戸谷成雄、若林奮、遠藤利克、川俣正など錚々たる10名の作品展だった。図録を繙くと、戸谷さんのこんな言葉があった。
▼「作るということは、発掘作業と似ているのではないか」、「僕がやっているのは、緑の生き生きとした森を描写しようとしてる訳ではなくて、一回死んだ森というか、失われた森というか、死んだ森を発掘している訳ですよね。森の埋葬ともいえるかも知れない」。
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《森 IX》作品のキャプションに、「素材:木、灰、アクリル」と書かれている。チェーンソーで木材を削って出た木屑を燃やし、できた灰を塗り込んでいるという。いわば、喪の作業だろうか。
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《森の象の窯の死》という不思議な作品タイトルは一体、何だろう。「森に棲む象(の像を焼く)の窯が亡くなった」? 「象」は動物の「ゾウ」ではなく「かたち」の意か? それにしても「窯の死」とは何だろう。
今展で最も強烈な印象を受けたのは、「《境界》から III」という小屋の作品。
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誰の、何の、棲み処だったのか。扉は開いたままで閉めようがない。亡くなった樹霊たちが一時、滞在し、語り合う場処だったか。聲は聞こえないが、空気が蠢く感じがする。ここでも、展覧会の出口まで行ってはまた引き返し、あちこちぐるぐる歩き回った。最後にあの小屋の入り口へまた立って、中を覗き込みながら聞き耳を立てたけれど、何も聞こえない。そのかわり、空気がねっとりと膚にまとわりつくような感覚だった。戸谷さんの作品には水の気配は感じられないが、この小屋の屋根に張られたアクリル板のようなものの黒く煤けたような状態は、雨後を思わせるものがあった。
DUMP TYPE展の「森」は抽象的なのに、得体の知れない音に満ちていて、現実の深夜の森に似ている。途切れ途切れに流れつづける電光文字は樹から樹へ交信される森の果てしない呟きか。戸谷成雄の「森」は具象的なのに、無音で、あの空気の膚感も、現実の森と似ているようで違っている。逆ベクトルの両展を同日に観ることで、引き裂かれつつ統合されるような――。冒頭に「心地よく疲れた思い出」と書いたが、帰りの高崎線の車内ではぐったりだった。
(追記)
埼玉県立近代美術館では《MOMASコレクション》展も開催されていて、思いがけず、柄澤齊さんの版画作品《肖像IV アルチュール・ランボー》の現物に巡り逢えてうれしかった。壁面にはランボーの詩――「また見附かった、/何が、永遠が、/海と溶け合う太陽が。」(A・ランボー「錯乱II―言葉の錬金術」『地獄の季節』より 小林秀雄訳『ランボオ詩集』)。ショップには絵葉書もあって購入した。
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(ピンボケですが…)