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往復書簡「飯島雄太郎と畠山丑雄の文学ちどりあし」:恋するベルンハルトあるいは、大阪という土地について

畠山丑雄→飯島雄太郎(1)恋するベルンハルト

 根っからの辺境精神なのか、おもしろい海外文学に触れると、どうやったら、あるいは誰ならこれを輸入できるか、ということを考えます。これは映画化の配役を考える愉しみに似ていて、素人読みの特権ですね。ベルンハルトも「日本なら誰がやるだろう」と考えた人は多いと思います。無論既に佐藤哲也という達成がある。しかしまだ余地がありそうでもある。私も熱心に現代文学を追えているわけではないのでどうしても有名どころになりますが、語りで押していく、ということであればまず浮かぶのは磯﨑健一郎、しかし磯﨑の語りは外向きである、あるいは町田康の『告白』なんかは内向きの饒舌で喜劇的かつ悲劇的、真に告白すべきことは決して告白できない代わりに無限の運動が担保されている、という点も含めてかなりテイストが似ている。しかしこれは誰でも思いつきそうでつまらない。となると他は誰か。饒舌で、量が書けて、荒涼とした反復にも耐えうる靭さを持ち、郷土文学的で、喜劇的で、現代のニュートラル風の顔つきをした恣意的で似非の深刻さを粉飾した日本語運用にそこはかとなく憎悪を感じていそうな、それでいて比類なき技術を持つもの……となれば森見登美彦である。既にベルンハルトの『地下 ある逃亡』と『太陽の塔』あたりはそれなりの近さに入っている。あるいは私は単に個人的に氏が完全な真顔になって、物語的な救済措置も一切破棄して、堰を切ったように故郷の奈良や青春を過ごした京都、アカデミックや出版業界に対して悪罵の限りを尽くすのが見たいだけなのかもしれません。
 全然関係ないんですが、O氏(当マガジン発起人)によれば飯島さんは学生時代チャーハンづくりに打ち込み誰彼かまわずチャーハンを振舞っていたとか、あとはこれは私の恩師から聞いたのですが、カラオケが好きなのに歌が下手(私ではなく恩師がそう言ったのです)というのは本当でしょうか?

飯島雄太郎→畠山丑雄(2)大阪という土地

 森見登美彦との比較はおもしろいですね、おっしゃる通り、京都に悪罵の限りを尽くすのは見てみたい気がします。なんというか、一般論として京都の学生生活はポジティブに書かれ過ぎな気がします。もっと暗い京都、どうしようもない京都を見たいし、その方が実態には近いんじゃないかと。(フィクションで取り上げられるのはもっぱら学部生の話だから、というのもあるかもしれませんが。)
 日本文学とベルンハルトとの関係で言うと、最近原稿の関係で佐藤哲也を読み直していましたが、やっぱり立派なものだと思いました。とくに『シンドローム』。ベルンハルトだとモノローグを弄するのは中年のおじさんですが、『シンドローム』だと10代の少年なんですね。そしてそれが結構合っている笑 ベルンハルトの空転するモノローグが、恋に悩む中学生の独白になる。これはちょっとした発明だと思いました。
 おっしゃる通り、町田康もかなり近い感じがしますね。個人的な感覚として、恥じらいの感覚が両者には共通している気がします。偉そうなこととか、大袈裟なことに対する恥じらい。町田康の先生格(?)の富岡多恵子にもこうした含羞があるので、もしかしたら大阪という土地柄に特有のものなのかも、と思うのですが。
 そういえば畠山さんも大阪でしたね。以前、樋口恭介さんとの対談でも茨木と満州のつながりについてお話されていましたが、ご自身の作品と土地とのつながりを意識されることはありますか? 大阪という土地は畠山さんの作品にどういう影響を及ぼしているのでしょうか。

 ちなみに私は歌が下手なんじゃなくてソウルフルなんです笑 左京区のビリー・ホリデイと呼ばれた日々が懐かしいです。


畠山丑雄(ハタケヤマ ウシオ)
1992年生まれ。大阪府出身。京都大学文学部卒。2015年『地の底の記憶』で第五十二回文藝賞を受賞。
昨年石原書房より『改元』を刊行。

飯島 雄太郎 (イイジマ ユウタロウ)
ドイツ語圏文学翻訳者/訳書にトーマス・ベルンハルト『石灰工場』『推敲』『アムラス』(いずれも河出書房新社、『アムラス』は初見基と共訳)など。博士(文学)。

近刊

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