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わたしの存在について|キャリコン受験記_vol.1

初めての投稿は2019年に受検した国家資格キャリアコンサルタントの試験について、のど元を過ぎた熱さを忘れてしまう前に書いておこうと思う。

私は「コミュニティ型大人の勉強場所」を運営するベンチャーで人事(以下HR)をしている。
2017年から社内初の産休・育休を約1年半取得し、2018年4月に復帰した。

私が就くまでHRはなかったので、1馬力。育休明けに代表との面談でその1馬力のHRの強みをどこに置くかを話しあったところから、私の受験ははじまりる。

20~30代の10名ほどの社員からなる組織。必要なのは労務や採用人事ではなく、個々の成長や働き方をサポートし、背中を押し、組織を強くしていくHRが自分たちらしいのではないか。その中で「キャリアコンサルタント」の話が持ち上がった。

それをきっかけに詳しく資格について調べてみると「これだ!」と。
独学での勉強を考えたが、養成講座を受けないと受験資格がなく、参考書もない。
そして既に10月から始まる次回の口座の申込みの期限が迫っている。
(高額な授業料以外)ほぼ迷うことなく申込んだ。

全授業をスクーリングで学べるクラスは勉強に使える休日が週1日しかないため、理論はオンラインでの受講。
休憩時間、寝かしつけ後の時間で動画を見はじめたのですがはかどらず、全講義を終えているはずの時期になっても半分くらいの授業が残っている。
もはや「見ること」がノルマ状態。
時間の自由が効かない人にこそ、決められた時間に通う場所があるのはいいことなのかもしれないと感じた。

12月に実技のスクーリングがはじまってから、夫の急性胃炎で夜中の救急車に同乗、子どもがもらってきたウイルス性胃腸炎で一家全滅、正月明けの子どものインフルエンザ、親族の突然の不幸。
楽しみにしていた授業を欠席せざるを得ない日もあり、イライラが募る。

なんとか養成講座を卒業できたものの、7月の試験までの4か月間は「自分で」勉強しなきゃいけない。授業の内容だけでは試験に臨めないことは明確に分かる。

ホルダー(有資格者)主催の勉強会に参加して「よしやろう!」と思っても、つい目の前のことを優先してしまって進まない。
どこの家庭も同じだと思うのだけど「仕事から帰宅→お迎え→夕飯の準備→子どもと夕飯→お風呂→なかなか寝ない寝かしつけ」をノンストップでこなし、翌日が仕事、起きてもリビングには夫がいてどうせ集中できないと思うと起きだす気になれない。
これがまた自分の意志の弱さを痛感させ、自己効力感が下がりっぱなし。

それでも、6月になると「とにかく学科はやらなきゃヤバい」と思い始め、「寝かしつけたまま自分も寝る→4時に起きて勉強」というパターンを決めて取り組んだ。
暖かくて日が長い時期だったからできたけど、今(1月)だったら確実に布団から出られなかったはず。

そして臨んだ7月の試験。
学科は自己採点で合格圏内。でも同じ日に受けた論述(実技の一部)で、時間が足りず半分くらい書き終えることができず「足きりだ」と絶望的な気分で帰路についた。
子どもを預けていた実家に迎えに行き、「落ちたと思う」と母に報告すると「結果が出るまでずっとそんな顔してるの?」と言われる。
「お母さんが浮かない顔をしていたら子どもがかわいそう」という意味で。
夫も「まだ分からないじゃん」と言う。
半年以上勉強し、試験を受けたのは私なのに、試験の内容も知らない人たちに意見され、家に帰ると私は落ち込むことも許されない。
その時「勉強する私」の存在が認められていないように感じた。
その気持ちを夫に話すと「勉強することを許してるじゃない」と。

私は「勉強する人」としては認識されていなくて、家では「勉強することを許可されている母」なのだ。同時に、職場では「勉強を許可されている従業員」かもしれない。

もちろん、夫は「させてやっている」と思っているわけではないし、母も含め私の勉強に協力的だった。

でも、勉強会の時間や試験の日程を聞かれることはあっても、その資格や試験の内容、活用方法など、私の勉強自体について聞かれたことはほとんどなかった。
だから、今まで興味を示さなかったのに、このタイミングで初めて勉強に対して意見を言われ苦しくなってしまったのだ。

勉強する私とは?

なぜこんなに悲しい気持ちになるのか。
すごく感謝している家族の言葉を、なぜ受け止められないのか。
だれの言葉だったら聞くことができるのか。

私たちは複数の役割を抱えていている。
その中での勉強は目につきやすい役割の副次的なものに見えることが多いのかもしれない。
生きているうえで必ずしも必要なものではなく、なるべく「親」「職業人」のような主たる役割(に見えるもの)の資源(時間,体力,気力,お金など)を削るべきではないと。
休憩時間ギリギリいっぱい勉強する、勉強のため有休をとる、子どもの横で勉強する、両親に預けて勉強会に行く、そんな時、自身も少しうしろめたさを感じていた気がする。

自分が勉強する立場になり、初めて自社のサービスは「勉強する私」が認められる場所として価値を持つことを認識した。
それは「ウチのサービスの価値は勉強する自分でいられることです!」と、その場で代表に電話したくなるような気づきだった。(実際はしなかったが)

ライフキャリアレインボー

キャリアの考え方のひとつに「ライフキャリアレインボー」というものがある。
●子ども
●学生(学ぶ人)
●労働者(職業人)
●配偶者
●家庭人(家事全般をする人)
●親
●余暇を楽しむ人
●市民
みんなこの7つの役割を、自分の限られた資源のバランスをとり生きている。

私の場合は
●両親が健在な「子ども」
●働く限りは「学ぶ人」
●趣味を持つ「余暇を楽しむ人」
●最低限の「市民」生活を送り
●ブックマークスで「働く人」
●結婚している「配偶者」
●大切な子供の「親」

下の表の通り、独立段階の今、この7つの役割すべてを担っている。
なかでも「働く人」と「」が一番大きな資源を費やしていた私の生活に、この時期「学ぶ人」が大きく食込んできていた。

でも、周囲の私に対する認識は「働く人」と「親」で、「学ぶ人」としての私はそのすき間の存在。「学ぶ人」より「配偶者」としての私のほうが表向きには認識されていたかもしれない。

そう思った時、サービス利用者に向ける会話を思い出した。

「勉強はかどりましたか?」
「こんな時間までおつかれさまです」
「それはどんな資格なんですか?」
「今はなにを勉強されてるんですか?」
「今日は目いっぱい勉強できますね」

勉強場所とはなんなのか

目の前の人を「学ぶ人」として接する。
ここにいる時だけは、その人がこの場に持ち合わせている全ての資源を「学ぶ人」として費やすことができる。

「子どものほうを見てあげなくてかわいそう」
「この仕事をなる早でおねがい」
なんて言われない。

代表の「大人の勉強場所がない」という実体験から生まれたサービス。
自ら資格勉強をして分かったことは「勉強場所」というのは物理的な意味だけでなく、精神的な「居場所」も含まれているということ。

もし、試験で論述も上手くいき、落ち込むことがなかったら、私は「学ぶ大人の居場所」という意味でサービスの価値を見つけることができなかったかもしれない。

そして、7月受検の結果は、学科は合格。でもやはり実技(論述+面接)の点数が3点足りず、不合格だった。

でも、実は論述は足きりになっていなかったのだ。
あの時、「まだ結果が出たわけじゃない」という周りの声に耳を傾け、腐らず面接に挑めていたら、「学ぶ人」であるという自分を肯定し、あきらめずに面接に挑んでいたら。

これは自分の課題だが、ふと「学ぶ人」である私に興味を持ってくれる居場所を持つことができていたらどうだったかな?と思う。

試験の前日も来店され時間を過ごされる
試験結果を真っ先に教えに来てくださる
残業で疲れていても来店してくださる
利用者の方々はもしかしたら、この価値を既に知っているのかもしれない。

「顔を覚えて名前で呼ぶ」
「相手に興味を持ち、話しかける」
「相手の目標に寄り添う」

私たちのサービスは、目の前にいる人自身を認めること。
それは「がんばれ」という言葉以上に、その人を応援することになるという、キャリコンの勉強でも学んだ「はげまし」を心から理解できた経験だった。

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