探究学習は主体的でありうるのか?
はじめに
こんにちは。んよりんかです。
気づけばもう2月も終わりに近づき、もうすぐ年度末ですね。皆さんは1年の振り返りは年末にするタイプですか?それとも年度末にするタイプですか?それとも振り返りなんてしないタイプでしょうか?
僕はこの1年間は、探求学習に向き合ってきた1年だったなと思います。
一応探求学習について説明しておくと、探求学習とは「変化の激しい社会に対応して、探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目標にしている」学習のことのようです。(文部科学省より)
そんな探求を、設計したり実施したり、サポートしてきたのがこの一年でした。今回はそんな探究学習の分析を通して、”主体的”という言葉について考えて行こうと思います。
主体的とは?
まず主体的という言葉の使われ方から主体的という言葉の大枠を捉えたいと思います。
例文から推察するに、「主体的」という副詞は、「主語」「動作」の二要素にくっつく副詞だと言えるでしょう。
ここでは、主語を生徒、動作を探求学習に絞って、具体的なシチュエーションから主体的の意味を探っていきたいと思います。
探求学習が目指していることは?
探究学習と主体性の関係性を考えていくために、まずは探究学習の目指すゴールについて考えていくことにしましょう。
改めて文部科学省の言葉を引用すると、探究学習は「変化の激しい社会に対応して、探究的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目標にしている」とされています。すなわち、探求学習の目指していることとしては
・よりよく課題を解決する資質・能力
・己の生き方を考えていくための資質・能力
の育成であると言えるでしょう。私はこれを、「課題解決能力」と、「自己分析能力」として理解しています。
つまるところ、何をするのかという理念的な部分を考える力とどうやるのかという理念を形にしていく能力ということだと思います。自分がやりたいことを自分で見つけられて、それを実行に移していく。探求学習が目指しているのはそういう世界であると言えると思います。
実際のところどうなの?
では、探求学習はこの「課題解決能力」と「自己分析能力」にどのように向き合ってきたのでしょう。
探求学習とは、大きく
1問いを立てる(テーマを決める)
2仮説を立てる
3仮説を検証する
4発表する
の4つのステップからなっています。課題解決能力を育てるのが2,3のステップ、自己分析能力を育てるのが1のステップ、「問いを立てる」の部分です。
探求学習は自分でテーマを選ぶものと、最初から与えられた(複数の)テーマ(から選んで)取り組むものの2つがあります。なんとなくの傾向ですが、最初はテーマが与えられており、学年が上がるにつれてテーマの自由度を高めていくことが多いような気がします。つまり、まずは与えられたテーマでの探求学習で課題解決能力を身につけてから、テーマを選んでいくことで自己分析能力も育てようというという取り組みです。
探求学習が主体的な学びだと言われるのは、この「自らテーマを選ぶ」ところにあります。自身の興味、関心に従って、自らの意思で取り組む対象を決められるのは、確かに他の教科学習にはない特徴ですよね。
今回はこの、探求学習のテーマ選択を通して主体性について考えていきたいと思います。
(一方で、与えられたテーマにのみ取り組む=課題解決能力重視のような探求学習の形もあるのですが、今回は割愛します。)
本人が選んだものは全て主体的な選択なのか?/主体的な選択とは良い選択のことなのか?
ここからは、私が探求学習においてぶつかってきた問いをそのシチュエーションごとに共有していくことで、主体性について考えていきたいと思います。
探求学習のテーマ選びで、「楽だからこのテーマにする」という生徒は一定数います。これは主体的な選択なのでしょうか?
理由によって変わってくる気がします。例えば、「面倒くさいからできるだけ簡単なのがいい」といわれると、それは主体的ではないような気がします。一方で、例えば「アイドルの仕事が忙しくて時間をかけられない」というのは、探求学習においては主体的でない気がしますが、人生においては主体的な選択をしていそうですよね。一方で、「ゲームがやりたいから時間をかけたくない」というのは主体的でなさそうな気がします。
でもよく考えてみると、本人がそうしたいと言っているのだからそれが一番主体的な気もします。そこに、言ってしまえば部外者の私が口を挟んでもいいのでしょうか。
また、ある判断が主体的かどうかを決める判断軸に、一般的な価値観が持ち込まれてしまっている気がします。一般的に良いとされることを主体的と呼んでいるだけなのでしょうか。
過去の自分の主体性は現在の自分の主体性を担保しうるのか?/合理的な判断の上での選択は主体的な選択なのか?
私が一時期面倒を見ていたA君は中高一貫校に通っており、その学校は中学から探求学習に力を入れていました。A君は中学生時代サッカー選手になろうと思っていて、中学での探求学習ではスポーツ選手の引退後のキャリアについて調べて、良い結果を残していました。高校進学後A君は、経営学部を目指して文系進学を予定しており、現在は1年生です。そんなA君は、探求学習のテーマとして、「別に今は興味が前ほど強くないがせっかくここまでやってきたんだから」と、スポーツ選手の引退後のキャリアを調べようと考えています。
ここで、スポーツ選手の引退後のキャリアについて調べるのは主体的でしょうか。
現在のA君がそのテーマに興味を持っているのかどうかが重要な要素でしょう。もしA君が今も興味を持っていたら主体的なような気がします。
では興味を持っていないにも関わらず、そのテーマを選ぶとしたら、どのような理由があるでしょうか?
A君が中学生の頃から興味を持ってきたテーマであることから、そのテーマで探求を行う正当性はありそうに見えます。中学時代から調べていて〜と言われると納得してしまいそうです。A君は中学の探求学習の結果があるため、より良い探求学習が期待できるでしょう。実際A君はこのテーマを選ぶ理由としてこのように話していました。
「自分がこれまでやってきたテーマだから」という理由で選択するのは主体的だと言えるのでしょうか。「これまでやってきた」というのを要素に分解すると、①過去の時点で興味を持っていて、②その時の選択を今まで続けてきたということを意味します。これらの二つの選択を根拠にこれからのテーマを選択することというのはすなわち、過去の選択を現在も引き続き支持するという姿勢を意味します。もしこの姿勢が主体的であるとするのならば、過去の主体的選択が現在の選択の主体性の根拠となるということになりますが、それは果たして本当なのでしょうか。
もう一つA君があげていた「自分がこのテーマの方が有利そうだから」という理由での選択は主体的な選択だと言えるのでしょうか。A君のこの発言の背景には、探求学習でいい成果を出したいという目標があると考えられます。そのためには、有利そうなテーマで探求学習を行うのが確かに有効に思えます。このように、目標から逆算的に考えていくことで、自分にとって最適な探求学習の使い方ができるようになるでしょう。一方で、このような合理的な判断で行う探求学習は、主体的な学びといえるのでしょうか。
探求学習は主体的でありうるのか?/探求学習は主体的であるべきなのか?
ここまであげた問いと、それが何を意味するのかをまとめてみるとすると
のようになるでしょうか。これにもし仮に全てNOがついたとすると、主体的とは一般的な価値基準とは関係がなく、過去の自分の選択と連続している必要はなく、合理的判断でもないものとなります。
裏返すと、自分の基準で、現在の自分の、感覚的な選択ということになるのでしょうか。それはつまり刹那的な衝動を意味するのかもしれないし、もしかしたら違うものかもしれません。
そういう意味で、私は、探求学習は主体的なものでありうると思います。
一方で、そうあるべきなのかという点については、まだ疑問が残るのではないでしょうか。
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