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母について

母というものは、私がこの世に産まれてまるで当たり前のようにそばにあった。

母、お母さん、ママ、〇〇。いろんな呼び方で母は存在した。

一番小さな頃の記憶で、母は何やらせわしない手つきで自分の荷物を纏めていた。

時間はほの明るい夜明けに近かったと思う。私は泣きながら、兄とともに母へ懇願していた。

「いかないで、ママ、私を置いて、いかないで」

まだ言葉は拙かったと思う。実際そういったかは定かではないが、そう思った気持ちを覚えている。兄妹の願いとは裏腹に、着実に母がどこかへ行く準備が進んでいた。

辛い口調で「ママは、もうあんたらのママ、やめるから。連れていけないから」と母は言い放って、私と兄を振り払いながら立ち上がった。そこで記憶は途切れている。

そのあと何事もなく、大人になるまで母がそばにいたことを考えると、母は母であることをやめなかったのだろう。やり直したと言うべきか。

私は時々この記憶を思い出して、曖昧に飲み下す。ここから始まったのか、ここが最初の母に対する不信感だったのか、何分それ以前の記憶が欠落しているため確証はない。

母は笑顔が可愛い人で、話も面白く、料理が上手で、何をさせても一生懸命な印象の付く人だった。散々苦労して離婚した父は、母のことをできた親だという。確かに複数の面においてはそう思う。親として、本当に教育熱心で、頑張り屋で、過保護だった。母のことを知る友人たちは、皆彼女のことを親切な優しい人だという。そういうとこもあるな~、と今私は懐かしくて思わず笑ってしまった。人には様々な顔がある。私にだって、いい顔と悪い顔がある。別にそれが同時に存在していたって悪くない。だが、その顔の使い分けを冷静に判断できるか。そこが重要なのではないかと思っている。

そう思ったきっかけは、パートナーの両親だ。パートナーの両親は、とてもよくできた人だった。彼女自身も大変よくできた娘さんだったものだから、ある程度想像はしていたのだけれど、その想像を軽く上回った。個別の性格は除き(もちろん性格もいいのだが)、親という側面で見たご両親は、完璧という言葉を首から看板にしてさげているようなものだった。最初は緊張をしていたということもあり、いい人たちだな~なんてざっくり捉えていて、知れば知るほど、やっぱりいい人たちだ、ん?こんないい人いるか?、とんでもなくいい人だ…と感嘆してしまった。それまで私が知っていた親という存在の定義を覆してしまったのだ。まず、予定が崩れすべての時間や場所が変わっても怒らない。衝撃だ。午後に差し掛かるまで寝ていても、起こしに来てくれたときに怒っていない。衝撃だ。記念日などの贈り物を催促しないし贈らなくても怒らない。衝撃だ。何があろうが自分の機嫌でこちらに当たってくることがない。衝撃だ。また、自分の機嫌をとらせるように仕向けてこない。何もかも衝撃だ。大なり小なりあげればキリがない。でも確かに私がこうだったらいいな~とか考えていた最強の親像がそこにあった。親とはこうあるべき、の見本のような人たちだった。(親のあり方には賛否両論あると思うので、ここでいうこうあるべきの像は、あくまで私が考える最善の親である。)

さて、ここで自分の母とパートナーの両親を比較して(比較という言い方は好ましくないが)みたいのだがまず先に、私の父について言っておきたい。私の父は、端的に言うとこどもじみた人だった。何か嫌なことがあると黙るし、ずるをしてしまうし、怠けるし、ゲームが大好きだし、パチンコだって打つし、とにかく幼稚で、まるで子供が突然親になってしまったような人だった。でも私はよく父になついていた方だと思う。欠点はあれど、面白くて愛情深い人だった。何より母を愛して、私たちを本当は心から愛しているのが伝わってくる人だった。でもある日を境に、父は狂ってしまった。母の浮気が発覚したのだ。幼かった私は、感情のコントロールができず、苦しむ父を恐いと感じ、拒絶した。私が父から遠ざかったは、そんな父のせいだけではない。母の言葉だった。「私が浮気したのが悪いんじゃない。お父さんは仕事でミスをして、仕事をしなくなってしまった。大変だった。だから私も休息がほしかった。お父さんに原因がある。」大方このようなことを言っていたと思う。今なら、何を言っているんだと突っ込んだはずだが、私はこのときすでに母の配下だったので、そうか、父が悪いのか、と納得してしまった。父は確かに仕事で失敗をし、職を失っていたが、その痛手をカバーできるくらい稼いでいた。それこそブランド物をポンポン買える額を、毎月。それを母は、本当にブランド物に変えてしまっていた。自分が一時期職に就かなくとも、貯金があるだろうと父は考えていたわけだが、蓋を開ければ、自分の稼いだお金は跡形もなく無くなっていて、それどころか限度額をとっくに到達したカードとその請求書があった。父はその時点ではまだ発狂していなかったと思う。やはり原因は、父を手の付けられない怪物に変えてしまったのは、母の浮気だ。父は元からだが機嫌がいいときと悪いときがあった。正確に言うなら、すぐギアが変わっていつでも機嫌がいいところからキレることができるという特技を持っていた。(余談だが、私もその特技を習得している。治したい。)それが酷くなったように思う。父は、突然怪物になってしまう。兄に聞いてみたことがある。「どうしてこんなことになったんやろ?」私は天井を見ながら現状を憂いていた。兄はぶっきらぼうな口調で「そんなんわからん!」と大きな声で言って、そっぽをむいてしまった。弱い。弱すぎる。考えることを放棄してしまった兄の背中は、ひどく小さくて、震えていた。母の浮気がバレて、家族全員が毎日ピリピリしていて、家庭内がギクシャクして、おそらく傍から見れば早く爆散しろと思わるだろう状況でも家族は続いていた。母に浮気相手と別れさせ、新しい家に引っ越した。心機一転、気持ちを新たに家族を始めようというわけだ。そんな中、私の誕生日が訪れた。忘れられない。お祝いだからと回転寿司を食べていた。(食べるな、そんな状況で。祝うな、誕生日。)その時、おそらく私がちょっとした文句を垂れた。どんな文句かは覚えていないが、余計なことを言ってしまったなという記憶がある。父はそんな私の髪の毛を引っ張って、店内を引きずり回した。痛いとかではなく、吃驚しすぎて声もでなかった。せっかくの誕生日に、なぜ?という思いが強くなって、そこから父に対する嫌悪感が強くなった。住む場所を新しくしても、母が家庭に戻ってきても、父の心は晴れなかった。傷ついたままだった。手負いの獣は、自分のみならず周りも傷つける。父は怪物になった。私はその頃急に機嫌が変わり手が出る父が本当に恐ろしくて、母に父と離婚してほしいと頼んだのだ。

そして、父は家族からいなくなった。

父は独りになった。もともと自分の親兄弟もちりぢりになっていて、偏屈な性格だから、友達もいない。頼れる人はいない。愛した人も、血のつながった子供も、住む場所も、職も、すべて失った。私は今でも後悔していることがある。傷ついた父を独りにしてしまったことだ。母の手から離れるまで、母の洗脳から解かれるまで、ろくに父に会いに行かなかったこと。父は何も言わなかった。寂しい、とも、なんとも。今ももちろん何も言わないが、時々「もっとお前たちが小さいときに、仕事なんかほどほどにして、遊んでいたらよかった。ちいさかったお前たちと遊びたい。一緒に自転車に乗って、プールにいったり、動物園に行ったり…」私はそれを聞いて「今からでも行こうよ」と声をかけたが、茶化したように笑うだけだ。当時母の言葉を鵜吞みにし、あなたを悪者にしたことを、どうか許してほしい。私がもう少し利口で、人の痛みに気づける人であったなら、父を数十年間、孤独にはしなかったのに。でももう、進んでしまった時は戻らない。父は私に手を挙げてしまったことを、自分が背負うべき罪だというように、謝罪してくれた。父は、昔を思い出して、沢山後悔をしているようだった。「お前が遊園地でほしがった、光るステッキな、しょうもないって買わんかったけど、買ってやったらよかった。そんくらい、してやれたのに」光るステッキを買ってもらえなかったその時の私は悲しかったかもしれない、でも私は今そういってくれたことが、あなたの後悔が嬉しくて、涙がでる。父は不器用な人だ。父は小さい私と遊べなかったことを後悔しているが、全然そんなことない。私は覚えている。小学校高学年に差し掛かっても、なかなか自転車に乗れるようにならなかった私のために、毎日、自転車の乗り方を教えてくれたこと。やっと覚えた自転車で、祖母の家まで一緒にサイクリングをしたこと。途中で大きな橋を渡って見た夕暮れ、綺麗だったね。休みの日に、普段は母に禁止されている駄菓子屋や、ゲームセンター、本屋さんに連れていってくれたこと。マックじゃなくて、モスが好きだなおいしいなっていって、二人でこそこそ買って食べてたよね。眠る前は、腕枕をしてくれながら、楽しいお話を聞かせてくれた。お気に入りのおもちゃを持って踊る私の姿を何時間も見てくれた。公園で日が暮れるまで、ブランコに乗っている私の背中を押してくれた、あの、あたたかくておおきい父の手を、私は生涯忘れることはない。本当に、そう思うのだ。父は今も独り身で、ひとりきりで暮らしている。私は今更になって、父を心から愛している。私が女の人とともにいることを決めた時も、反対なんてしなかった。昔から私に似た赤ちゃんを切望してきた父なのに、不思議だった。ある時、パートナーと父と私で屋台のような場所でごはんをたべていると、どんな関係だと店主に聞かれた。父は言葉を濁すことなく、関係性を説明して、パートナーのことも新しくできた娘だといってくれた。「反対しなかったのか?」と聞かれたら、「娘に嫌われるのが怖い」と照れたようにいった。続けて店主は「お母さんは?」と聞いて「離婚したから」と答え、「なぜ?」とさらに突っ込まれて、父は静かに「自分が不甲斐ないせいだ」といった。父は、私にとって、よくできた親になって帰ってきた。私が求めていたお父さんになって、私の前にもう一度現れてくれた。私は父に感謝して、失われた時間を見つめながら、これからともにできる時間を大切にしていこうと強く思っている。

父は、もう言わなくなったが、今も私と母の関係を気にしているだろう。
母との確執は、続いている。もう会わなくなって二年ほどになる。最近母からメールが届いた。電話やラインは拒否しているが、メールは盲点だった。届いた内容は読むにも値しない内容(ちくちく言葉)だった。私はメールも拒否した。私は母に対して、もう砕くハートが残っていないのだ。私は対人関係において、人それぞれに思い出や気持ちなどを詰め込んだハートを持っていて、嫌なことがあったらそれが欠けたり、逆によいことがあれば大きくなったりひかったりする。母はハートを使い切った。砕けた欠片も用いたが、それも無になった。もう何も残っていない。現に私は今とても冷静な気持ちでいる。強がりでもない。これが四年前とかならこうはいかなかった。びいびい泣きながら母についていろいろ書き込んで、母を恨みながら、そんな自分を責めただろう。だが、もう何も残っていないから、晴れやかではないが、落ち着いている。父のことを振り返った上記の文は一リットルくらい涙を流しながら書いていた。でも、母のことはどうだろう。まだ、一ミリも涙とか、こみあがる感情は浮かんでこない。ではなぜ母のことについて書こうと思ったか、書こうと思うということは気にしているのではないか、まあそうかもしれない。母断ちをして二年。私は過去に味わった気持ちを書き留めたいがために今ここで文章を打ち込んでいる。だって、忘れてしまいそうだから。とんでもない気持ちだった。これをなかったことにしておきたくない。これは自分勝手な気持ちだ。または、人のために、思うことがあるとしたら、同じような状況にいる小さな人(小さな人というのは、なにも物理的な話ではなく、単純に幼い人も、身体は成長しても心は小さな人のままの人も)に、似たような気持ちを宿したことがある人間がいることを知ってもらって、なるほど、あなたも…?となってほしいのかもしれない。這い出た気持ちの中に、汚いものもおぞましいものもあるだろうから、それらを肯定してあげたいとかは思わない。でも、ひとつの要素として捉えてもらえたら、少し、楽になる人とかがいるなら、いいなと思う。

・・・つづきます・・・

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