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陪審員2番について

触れておかなければならない点として、本作が配信ストレートになった事がある。

本国での様々な経緯は一先ず置いといて、それ程の時差がなくこの傑作を観られることになった状況は歓迎すげき事だと私は思っている。

MAXとU-NEXTが提携していなければ観ることは叶わなかったであろう状況に陥っていたのは確実で、時差なく配信してくれたU-NEXTには映画ファンは感謝するべきだ。

一方で劇場での公開を求めるハッシュタグアクティヴィズムでの主張は賛同しかねる部分が多い。

彼らの主張の中にあるーー配信で見ることができない人たちの為にーーというのがそもそもおかしいだろう。

そもそも配信で見ることができない人なんていますか?

“してない”だけですよね?

例えば、全国公開を求める署名で、都心に行く事が出来ない人の為に公開規模を拡大すると言うことならばそれは個人の責任ではどうしようもないので賛同しますが、配信に関しては自主的にしてないだけなので、それで観れないなどと抜かすのは他責思考にも程があるでしょう。

鼻持ちならないのは、結局は都心で数館公開出来ればいいという、地方のユーザーに対する軽視があるからだ。

僕個人は都心へのアクセスは難しくない地域に住んでいるから無理して観に行くことは出来るけど、交通費だってかかるし出来れば近所のシネコンで観たい。

なのにこの署名活動はそういったユーザーを軽んじているように思える。

まずはタイムラグがなく配信ストレートになった事を喜びましょうよ。

そうしないと映画産業持たないですよ。

ユーザーはこうして離れていくんですからね。


そして肝心の映画は、と言うと大傑作だった。

巷では最後の作品になるのではと言われているけど、まだまだありそうな気がしてる(笑)。

そもそもイーストウッドが集大成的なる作品を撮るのだって何回目かもわからない。

「ペイルライダー」、「許されざる者」、「ミスティック・リバー」、「ミリオンダラー・ベイビー」、「グラン・トリノ」、「アメリカン・スナイパー」、「運び屋」、「クライ・マッチョ」等々これら全て集大成と評されてきた。

これだけ多作のイーストウッドであるにもかかわらず、彼の作品はどこか観客を煙に巻くようなところがあるから毎回困惑させられるし、彼のフィルモグラフィーほど掴みきれずに指に間から抜け落ちていくような作家もなかなか居ない。

しかし、本作「陪審員2番」は、これまでの作品がやっと線でつながるような集大成と言って差し支えない作品となっている。

映画が始まる前の映画会社のロゴで“マルパソ”が出てくる辺りで彼の作品を追い続けた身としては落涙物なのだが、まさにマルパソ映画で描かれて来た“人を裁く”ことに対する最終回答がこの作品にはある。

「ミスティック・リバー」に感銘を受けた脚本家による「陪審員2番」は一見すると同じような作品にも思えるが、直接手を下した過去作に対して、本作では最後まで助けようと試みることになる。

「ダーティハリー」では法で裁けない人間を自ら裁きの鉄槌を下す。

「ミスティック・リバー」もそうだ。

では法廷で議論を重ねれば正しく人を裁けるのだろうか?

そして本来は裁くべき人間でない人に正しい裁きを行使できるだろうか。

人を裁くとき、また自分も善悪の境界で裁きを受けるのだろう。

本作の切れ味のあるラストは「アメリカン・スナイパー」に似ている。

善悪の彼岸を超えた使者がお迎えにやってくるラストだ。

それでも民主的な決議、司法制度が無いよりはマシだと。


ここ最近のSNSでのキャンセルカルチャーによる私刑などにも思いを馳せた。

自分には人を裁くことが出来るのか。

もう一度考えてみてはいかがでしょうか。


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松向寛太
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