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小説・P氏の日常 3 (M子との別れ)

 M子は、私の部屋の真ん中で寝ていた。フローリングの上に座布団を並べて、その上でブランケットを一枚掛けて、寝間着のまま寝息を立てて寝ているM子の表情はまるで無防備だった。私は、M子を起こさないように気を付けながら、自分の家事を片付けていた。五月の軽い空気が、窓から出入りしていた。

 M子との出会いは職場でだった、二人共派遣社員だった。隣の席に後から来たM子は不慣れで、アレコレと教えているうちに仲良くなって、二人で飲みに行った晩にはうちに泊まりに来ていた。M子はそういう、ノリというか勢いがある人だった。
 M子は地方の会社から送り込まれて来ていて、その会社がM子に与えていたのはウィークリーマンションだった。そこは狭く、家電は最低限しかなく、日は当たらず、洗濯はコインランドリーでしていて、本人以外が入室したら罰金なのだとM子から聞いた(監視カメラがあるらしい)。仕事が大変なのに部屋に帰っても全然寛げず、ストレスが溜まるのだそうだ。


 M子は私の部屋をすぐに気に入り、毎週末に来るようになった。当時の私は職場から近い場所で一人暮らしをしていて、一人で住むには少し広い部屋に住んでいた。M子は大きなバッグに洗濯物を詰めて持ってきて、私の洗濯機で洗濯し、私のベランダに干した。その間にどこへ出掛けるかプランを立てるのが私の仕事になっていた。私のプランにM子が同意したところから、二人の休日が始まるのがパターンだった。そして私は週末に洗濯しなくても済むように、平日に洗濯するのが習慣になった。平日の夜に、電話でM子の愚痴を聞くことも多かった。
 この週末もM子は昼過ぎにやってきて、洗濯をして、二人で出掛けて映画を見た後食事して、帰って来てから部屋で飲んで寝るというパターンだった。朝食は私が簡単なものを用意した。食事の後にM子はシャワーを浴びて、アイロンがけをして、それから昼寝を始めるのもパターンだった。静かな住宅街にある、日当たりの良い我が家での昼寝は、M子にとってはとても心地よいものだったそうだ。

 当時の私は四十代半ばで、M子は三十代半ばだった。この年齢差と身長差から(私が20cmくらい高かった)、私は自然とM子より上にいる気分でいた。ところがM子は物知りで、色々な経験があり、どこでも自分一人でどんどん行ってしまうような性格だった。私がいい気になってM子に何かを教えるようなことをすると、M子はその話に色々重ねて膨らませたり訂正したりするので、私は余計なことを言えないような感じになっていた。


「M子は何でもよく知ってるんだね」
「そんなことないよ、たまたまだよ」
「タマタマ?」
(と人差し指をωの形に動かす私)
「もう! やめてよね!」
こんな風に話していても、M子は私の気持ちを察してしまうのだった。
「気にしてるの?」
「ん? そうでもないけど……そうでもあるかな」
「別にあなたのこと、バカにしたりなんてしてないよ」
「それは分かるけど、変なプライドがあるんだろうね、男だし」
「そんなのいらないのにー」
「そうなんだけどね、ははは」
「だってあなた上手じゃない、私いつもメロメロになっちゃうんだよ!」
「(声がでかいよ!)」

 私は、M子がどれだけ気を使っているかはよく分かっていた。それは凄く有り難い、得難いことなのだけど、自分ではどうすることもできなかった。このことは滑らかなテーブルの上に付けてしまった傷のように、私の中には残っていた。

 職場ではいつもM子に色々教えていた私だけど、ここでも影響が出てきてしまった。私がM子に教えたことがもし間違っていたら? それをM子から訂正されたりしたらどうなる? そしてM子が私を越えていってしまったら?
 そうして私はどんどん自信がなくなっていき、口数が減っていった。M子に対してだけではなく、職場での私は精彩を欠いていってしまった。

 それでも、M子との関係は続いていた。それは私にとってもM子にとっても、必要なことだった。例え、二人が求めるものが違っていたとしても。

 ある土曜日の夜、部屋で二人で飲みながら、テレビでやっていた映画を見ていた。別に見たいわけではなかったが、何となく見続けていた。私はM子と会話したくなかったのかもしれない。
 その映画は地味な中年男が主人公で、彼が地道にコツコツ生活する姿を描いていたが、あるキッカケで主人公は人を殴ってしまい、留置場に入れられてしまう。それでも示談となって釈放されて家に帰ってくると、そこへ主人公が世話になり尊敬している師匠のような男がやって来る。
「おい○○(主人公)、喧嘩したくなったら俺のところへ来い。いいか、分かったか!」
その言葉に主人公は、黙って下を向いて泣くのだ。

 私は思わず、
「いいセリフだね、こういう人いいね」
と言った。
するとすかさずM子は、
「あなたがこの人みたいにならなきゃダメじゃない」
と言った。
私とM子は同時にハッとなって、しばらく黙った。
テレビからは、映画の音声や音楽が流れ続けていた。
私の目はテレビの画面を見ていたが、何も見ていなかった。

 二人共、何も言わなくても分かっていた。私の中では、あの傷が付いたテーブルが、そこから真っ二つに割れてしまった。割れたテーブルは、悲しくて重かった。

 これ以降、二人の間には大きな溝が出来てしまった。M子は数日後に「また泊まりに行ってもいい?」と聞いてきたが、私は首を縦には振れなかった。そしてその後は、職場の外で二人で会うこともなくなった。
 誰が悪いわけでもなかった。ただ、二人が求めたものと、お互いが持っているものが違っていただけのことだ。ここで気付かなくても、いつかは気付くことだ。
 その後、私もM子も別の職場へ移り、顔を見ることもなくなった。

 たぶん、私とM子は付き合うべきではなかったのだと思う。こんな風に、男女の付き合いというのは難しい。出会って、付き合って、所帯を持つようになるのは、どれだけの確率の上で可能なことなのか。それともただの勢いか。

 今でも休日に家事をしていて、窓から心地よい風が吹いてきたりすると、M子のことを思い出す。床に座布団をひいてブランケットを掛けて寝ていたM子は、求める相手と出会えたのだろうか。M子と会って話してみたいと思ってしまう私は、まだ一人だ。

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。

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