母のプライド
私の亡き母は、昭和7年生まれです。
東京の山の手で育った、言ってみればお嬢様。
(身内だから中々気付きませんでしたが、結構な美人でしたよ)
父親は土地持ちの校長先生だったそうです。
ところが空襲で東京は危なくなり、一家は北関東へ引っ越しました。
終戦後、学校を卒業した母は家事手伝いをしていましたが、勧められて見合いして結婚。
相手(父)のことを気に入ったわけではなく、当時は年頃になれば結婚するのが当たり前だったし、厳しい両親から逃れたいという気持ちが強く、好き嫌いはどうでもよかったそうです。
昔はそういうのが多かったんですよね、見合いの席で初めて会って、ろくに話しもしないで結婚して、新婚生活の中でお互いを知っていくという。
双方の身元は仲人さんがチェックしているわけだから、一応安心だし。
好き・嫌いは別にして、人口を増やすこと=国力が増すということからすると、こういうやり方が正しかったわけです。
父は北関東で生まれ育った人で、前に書いたとおり引っ越しが多い家系なので、どこで生まれたのか私も把握していません。
ここに、山の手のお嬢様と北関東の田舎者という組み合わせの夫婦が誕生しました。
若い頃の母は世間知らずで、父の言動が世間の常識だと思っていたそうで、何でも合わせていきました。
山の手で厳しく躾けられた母の持っていた常識は、北関東では通用しなかったのです。
例えば、親戚が集まって食事したときに、母がみそ汁を飲んでいたら、
「ここの嫁は不味そうに食うなぁ!」
と言われてしまったそうです。
北関東では、みそ汁はズルズルと大きな音を立てて飲むのが当たり前であり、山の手のマナーは通用しなかったのです。
それで母は、音を立てて飲む練習をしたとか。
後になってこれが間違いだと気付くわけですけど、当時の母は真剣だったそうです。
そして母は、義父母からのいじめを受けます。
(別居ですが家に頻繁に訪れていたようです)
暴力はなかったものの、嫌味を言われ、何でも拒否か反対をされ、敵意を剥き出しのままぶつけられ続けました。
父は仕事大好き人間で、家庭のことには無関心だし、両親が大好きですから、母の状況なんてどうでもよくて放置していたそうです。
でも母はそれでめげたり泣いたりはしなかった。
相手を冷静に観察し、上手く合わせながら心の中で、
「下らない人間がいるもんだ」
と思っていたとか。
母は仲の良かった妹と連絡を取り合い、出来事を報告し合い、大笑いして済ませてしまいました。
そして子供達が生まれ、父の仕事の都合で引っ越しを繰り返し、義父母も高齢になり。
父は自宅から遠くない場所に両親を住まわせ、その後に予想される事態に備えました。
何かあれば、仕事で忙しい父に代わり、母が義父母の世話をしていました。
やがて義父は病に倒れて他界、義母は長生きしましたが認知症になり、徘徊したりして母は大変だったそうです。
(子供達は全員独立していて、この頃の状況は見ていない)
昔イジメを受けた母は、憎き相手が高齢で弱っても仕返しをすることはなく、出来る限りのことをしてあげました。
それが母のプライドです。
下らない人間に合わせてレベルを下げてもしょうがない。
可哀想な人達は助けてあげないといけない。
すげーな。
この半生を、家族が集まると母はよく語ってくれました。
義父母のイジメ、父の無関心、それを子供達の前で明るく楽しく語り、それは年々立場が弱くなっていった父への嫌味も含まれていたと思います。
それでも、ただ父をこき下ろすだけではなく、どこかに愛情を残すような語り方が母らしかったです。
その後、体が悪くなっていっても、子供達にそれを教えようとしなかった母。
病に倒れ、植物人間となって半年後、母は亡くなりました。
両親の家へ行ってみると、片付けられない人なのに、母の部屋は物が減ってサッパリしていました。
自分の描いた油絵も全部、処分してしまっていました。
後に余計なものを残さない、そういうことなのでしょう。
この人には敵わないなぁ。
いつも明るく、優しく、突拍子もなく、個性的で、ときに毒も吐き、冷静な客観視が得意だった母。
小動物と小鳥と蘭の原種が好きで、ピーターラビットをこよなく愛した母。
世間知らずで、子供達からのツッコミにおちゃらけて応えた母。
私のオヤジギャグに一々爆笑してくれた母。
そして家族の誰よりもプライドの高かった母。
こんな母は、私の誇りです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
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