『MMT〈現代貨幣理論〉とは何か 日本を救う反緊縮理論』島倉原氏のアマゾンレビュー(全文)からの転載
『MMT〈現代貨幣理論〉とは何か 日本を救う反緊縮理論』
(2019年12月7日発行 角川新書 島倉原 【しまくらはじめ】著)
を読んで印象に残ったところ。
貨幣の起源を貸し借りの関係に求め 、 「貨幣 =支払手段として用いられる債務証書 」ととらえる考え方を 「信用貨幣論 」といいます
商品貨幣論が説くように物々交換市場から貨幣が生まれたのではなく 、むしろ貨幣が先に存在し 、それに付随する形で市場取引が発展したというのです 。商品貨幣論と信用貨幣論は 、そうした意味でも対極的と言えるでしょう
M M Tによれば 、国家はまず 、租税の大きさを測る単位として計算貨幣を創造します 。次に 、計算貨幣に基づいて 、国民に対して納税義務を課します 。最後に 、計算貨幣で表示された国家の貨幣 、すなわち自国通貨を発行し 、租税の支払手段として受け取ることを約束します 。すると 、民間も含めたほとんどの債務や資産 、あるいはモノやサ ービスの価格が計算貨幣 (通貨単位 )で表示されるようになり 、それらにかかわる取引の決済手段として自国通貨が用いられるようになります 。 M M Tは 、こうしたメカニズムを 「租税が貨幣を動かす ( t a x e s d r i v e m o n e y ) 」と表現しています
現実はむしろ逆で 、通常はマネ ーストックがマネタリ ーベ ースの発生要因となるというのが M M Tの見解です
銀行貸出によって預金残高 (マネ ーストック )が増えればその分だけ銀行口座からの現金引出しも多くなるため 、民間銀行はその備えとして通貨を手当てすることが必要になります 。すると 、それに応じる形で 、民間銀行名義の中央銀行当座預金 (マネタリ ーベ ース )が中央銀行によって供給されるのです 。
ビットコインは 「信用貨幣 」という貨幣の要件をそもそも満たしていません 。そこには価値の裏付けとなる誰かの債務が存在せず 、したがってその適正価格は必然的にゼロとなります
M M Tによれば 、国家にとっての貨幣制度の目的は 、モノやサ ービスといった実物資源 (労働力を含む )を政府部門に動員し 、それを使って何らかの公共目的を達成することにあります 。そして 、動員する際の支払手段として機能させるため 、国定貨幣 (通常は通貨 )に対する需要を創造するのが租税の役割です
財政ファイナンスを悪者扱いすること自体が経済全体にとっては不合理で 、形式的に禁止されたとしても間接的な形で行わざるを得ないという現実を踏まえた上で 、手続きを煩雑にして無意味なコストを発生させているだけの現行の法制度に対して 、建設的な批判を行っているのです 。
他方で 、一九七〇年代前半までの日本は 、政府部門が概ね黒字で国内非政府部門が概ね赤字という状況が継続していました 。こちらは 、高度経済成長という投資ブ ームによって 、企業部門の収支が大幅な赤字となった結果です 。
高度経済成長は 、バブルとは違って決して短期的な現象ではなく 、しかも歴史的な高成長を実現したという点で評価すべきものであることは事実です 。しかしながら 、それは 「第二次世界大戦後の焼け野原からの復興 」という極めて特殊な状況の産物であり 、復興が一段落した後も引き続き持続するのは難しいという点で 、やはり例外的な事例ととらえるべきでしょう 。したがって 、この時期を模範として財政黒字の持続を望ましいものと考えるのは 、経済政策論としては近視眼的で 、極めてバランスを欠いていると言わざるを得ません 。
民間部門の黒字を上回る経常収支の黒字 (海外部門の赤字 )を達成すれば 、 「民間部門収支 +政府部門収支 +経常赤字 (海外部門収支 ) =0」という例の恒等式から 、財政黒字と民間黒字を両立させることも可能です 。しかしながら 、全ての国が経常黒字となること自体が不可能なわけですから 、こうした状態を 「達成すべき 」という議論には自ずと無理が生じます 。
仮に 、特定の国が輸出促進や輸入抑制によってそうした状態を強引に達成しようとすれば 、いわゆる 「近隣窮乏化政策 」として 、反対側で経常赤字が拡大する貿易相手国などの反発を招きかねません 。したがって 、これまた現実的とは言い難く 、少なくとも 、持続性に問題のない財政赤字を懸念してまで追求すべき選択肢ではないでしょう 。
全ての国が同時に経常黒字となるのが不可能だとすれば 、 「少なくともいくつかの国の政府は 、世界の貯蓄者が欲する純金融資産を供給できるよう絶えず赤字でなければならない 」 (レイ (二〇一九 )三九三ペ ージ )のが現実で
その場合 、最も高い支出能力を備えた基軸通貨発行国の政府がその役割を果たすのが理にかなうというのが M M Tの主張であり 、現代では米国政府がそれに当たります
日本を含めた「特別な存在」である一部の主権通貨国の政府もまた、米国政府に次いで、そうした役割を果たすにふさわしい。
消費が増えるほど、人々の生活水準は向上する。
ミンスキーの著書によれば、広告宣伝費やマーケティングは市場支配力を形成する手段であり、経営幹部特権は非効率を蔓延させるものであるから、望ましくないとされています。
完全雇用とは、現在の賃金水準で就業を希望する人が全て雇用されている状態のこと。
(ケインズの著書『雇用・利子及び貨幣の一般理論』で定義された概念)
完全雇用ではない、すなわち非自発的失業者が存在するということは、経済全体に本来備わっているモノやサービスの生産能力が、不十分にしか発揮されていないことをいみします。つまり、その分だけ、社会全体で利用可能な富が失われていることになります。
その結果、人々の生活水準は低下し、所得を稼げない失業者とその家族へのダメージは特に重大なものとなります。また、生活水準の低下や就業機会の喪失は、健康状態や治安の悪化、危険なイデオロギーへの傾倒、ルサンチマンによる特定の人々への攻撃といった、さらに深刻な問題を引き起こす傾向があります。
失業が存在する経済環境は、現在就業している人々にも失業の不安を与えることから、しばしば差別を伴った、労働者に対する不当な処遇を誘発する傾向があります。これらの弊害を取り除くことができるという意味で、完全雇用の達成には単に産業上の利益に留まらない、社会安定のカギとも言うべき公共的な価値が存在すると考えられます。
政府が完全雇用の達成にに注力することは二つの経路を通じて経済全体の効率性向上に寄与します。
一つ目は、失業の不安から解放された労働者が、現在の仕事がなくなるリスクを顧みずに設備の効率的な利用(労働節約的なイノベーション)に励んだり、より生産性の高い仕事に転職するのを後押しし、モノやサービスの最大産出量を引き上げるという経路です。
さらに、そうした政府の姿勢は、マクロ経済的な不況によってビジネスが失敗するリスクから経営層や投資家を解放し、自らが制御可能なより個別的なリスクへの対処に専念できる状況をもたらすという経路によっても、経済全体の効率性向上に寄与する。
MMTによれば、政府が税金などの自らへの支払義務を定めると、人々は支払義務を果たすために貨幣を稼げる仕事を探し求めるようになります。ところが、政府の赤字支出がもたらす非政府部門の貯蓄がそうした人々のニーズに対して不十分な水準であると、失業が生み出される。
失業問題の解決は、原因である自らへの支払義務を定めた政府が当然負うべき責務であり、しかも、政府にはそうした政策を遂行するのに必要な「支出能力」がある。
これこそが、MMTが公共目的として完全雇用を掲げる本質的な理由。
こうした公共目的の観点に基づいて、MMTから直接導かれる帰結が、「機能的財政」と呼ばれる政策論。
政府の財政政策は、経済にもたらす「結果」のみに基づいて実行されるべきであり、何が健全か不健全かという伝統的な教義に従うべきではない、というもの。
ラーナーは、機能的財政において政府が従うべきルールを二つ挙げています。
一つ目は、政府には「国全体のモノやサービスに対する総支出額を、最大可能な総生産量を現在価格で購入した場合の水準に維持する責任があるというもの。
「最大可能な生産量」とは、完全雇用ではじめて達成されるもの。
このルールは、完全雇用と物価安定の達成が政府の責務であることを、行動指針としてより具体的に述べたもの。
総支出額が目標水準を下回れば失業が発生し、上回ればインフレとなるため、いずれも望ましくない。
二つ目は、「政府は、国民が貨幣の保有量を減らし、国債の保有量を減らすのが望ましい場合のみ、借入を行うべきである」というもの。
つまり、ラーナーは、「国債発行は政府の資金調達手段ではなく、金融政策における金利調整手段である」と主張。
機能的財政によってインフレが抑制されて通貨の価値が保たれている限りは、国家債務の水準自体が一見巨額であったとしても、その償還のために通貨を発行することが社会にとって危険ではない。
課税の目的は人々の経済的行動に影響を及ぼすことであって、決して収入を得ることではない。
外貨準備の蓄積に拘束されない変動為替相場制の方が、「政府により大きな政策余地を与える」、すなわち無制限の支出能力をもたらすため、長期的にはそちらに移行するのが望ましい。
変動為替相場制の下では、為替レートの変動圧力にかかわらず、すべての国が機能的財政を追求することが可能となります。したがって、過度な資本規制や貿易統制を行う必要もなくなり、結果として国際協力の促進にもつながる。
自動安定装置には、政策当局者の判断を待たずに景気変動をタイムリーに緩和できるという利点はあるものの、そうした変動を完全に相殺できるわけではありません。
経済の問題を認識してそれに反応するには時間がかかるため、自動安定装置を備えておくことが望ましい。
裁量的財政政策全般に、積極的に評価していない。
政府支出を伴わない最低賃金制度による家計所得の増加は、あくまでも民間企業全体の利益減少によってもたらされる。
最低賃金制度による強制的な賃上げは、民間企業の雇用意欲を低下させるだけでなく、将来の生産能力増強に向けた投資意欲も低下させる。
その結果、経済全体が完全雇用水準から遠のくのみならず、場合によっては賃上げや生産能力低下によるインフレ圧力が生じ、経済全体をスタグフレーション状態に陥れるリスクがある。
政府債務が膨張して金利が上昇するのが心配なら、中央銀行の「支出能力」を活用して国債を購入し、金利を引き下げれば良いだけではないか。
よりMMTに整合的な政策を採っていたとしたならば、現況の日本経済よりも高い成長率を達成しているはず。
1990年代までは、法人企業部門が日本で最大の赤字主体でした。ところが、1990年代半ばにデフレに陥るのとほぼ同じタイミングで、法人企業部門は黒字に転じ、2002年以降は逆に最大の黒字主体になってます。法人企業と対称的な動きを示しているのが政府部門で、デフレ突入と共に赤字が大幅に拡大し、法人企業部門に替わり最大の赤字主体となって現在に至っています。
経済全体の収支バランスやインフレ率をを主導しているのは企業の投資意欲であり、それが極端に低下した状態が続くことでもたらされているのが日本のデフレ、そして財政赤字の拡大であると考えられます。
財政赤字の拡大は政府の過剰支出やインフレを示すどころか、むしろ「企業の過少支出=デフレ」を示す指標であり、米国でも概ね同様な傾向が見られます。
米国や、あるいは1990年代前半までの日本がそうであるように、一時的に投資意欲が冷え込む不況期を除けば、企業部門全体の収支は概ね赤字で推移するのが正常な姿です(なお、ここでいう赤字とは、企業会計におけるフリーキャッシュフローの赤字に相当するもので、損益計算書上の赤字とは別物です)
マネタリーベースは、1990年代前半までは概ねGDPと並行していました。ところが、政策金利が1%を切った1996年頃からはGDPと乖離する形で増加が続き、さらに「量的・質的金融緩和」が始まった2013年以降は増加ペースが加速して、GDPとの乖離はより一層拡大しています。こうした結果は「金融緩和だけではデフレを脱却できない」のみならず、「緊縮財政そのものが、長期にわたる日本経済の停滞とデフレの原因である」ことを強く示唆しています。
「統計上、経済成長率の92%は財政支出の伸びで説明できる」「ほぼ『財政支出伸び率=経済成長率」という関係が成立。
民間部門の投資や消費もまた、「財政支出=非政府部門の所得」を原資として同様なペースで拡大。
財政支出拡大による下支えもあり、1997年まではGDPの成長が続き、製造業の生産能力や実質賃金も上昇トレンドが保たれていた。ところが、それ以降政府が緊縮財政に転じたことにより、翌1998年からGDPの成長が止まった。
GDPの成長が止まったということは、企業部門全体として、国内での利益成長見込みがなくなったこととほぼ等しい。その結果、国内での投資意欲をさらに低下させた企業は恒常的な貯蓄超過となり、生産能力と実質賃金が低下を続けるデフレ・スパイラルが生じた。
金融緩和は企業の投資意欲にほとんど影響しない。したがって、デフレ・スパイラルは解消することなく、現在に至っています。
緊縮財政が企業を貯蓄超過に追い込んだということは、その裏返しである財政赤字の拡大は、実は緊縮財政によってもたらされたということになる。
完全雇用とは国の生産能力が最大限発揮された状態、すなわち実質GDPが最大化された状態であることからすれば、機能的財政の追求は、年金制度にとっても最も望ましい状態を自ずともたらします。
ましてや、年金保険料すなわち社会保障税は、雇用を抑制する「悪い税」です。
デフレ・スパイラルの日本で行うべき政策は、「マクロ経済スライド」を廃止して家計や企業の負担を軽減し(年金保険料は引き下げまたは廃止、年金受給額は維持または増額)、総需要を引き上げつつ国内の生産活動を活性化することに他なりません。
そうなれば、今よりも人々の負担が減ることに加え、保険料差し引き前の所得も増加することから貯蓄する余裕が大幅に高まり、「老後2000万円問題」は自ずと解消に近づくことでしょう。まさしく、「増税せず、単に高齢者支援のために年金を上げることに全く経済政策上の問題を感じません」とケルトンが述べているとおりではないでしょうか。
「ケインズ型政策が財政赤字の拡大を招き、過剰なインフレを引き起こした」という『赤字の民主主義』の議論は、現実に矛盾するものです。
長期的に見ると、1980年代以降の財政赤字はそれ以前と比べて明らかに拡大傾向であるにも関わらず、インフレ率は年々低下。
結局のところ、同書の問題点もまた、「財政赤字の拡大は政府の過剰支出ではなく、むしろ民間企業の過剰貯蓄の結果である」というマクロな視点の欠落にあるのです。
現代の日本政府は緊縮財政によって、高インフレの予防どころか20年に及ぶデフレを実現しているのです。甚大な経済ダメージがある緊縮財政を、多くの国民がやむを得ないものとして受け止めている結果にほかなりません。少なくとも現代の日本において、「民主主義の下では、高インフレを予防するための財政支出削減や増税は難しい」というのはかなり極端な議論。
1970年代のように超過需要とは別の要因で長期にわたってインフレが続く例外的な場合には、インフレ対策を打ちつつもあくまで完全雇用を重視し、通常時よりは高めのインフレを許容するのが、MMTのスタンス。
日本に第二次世界大戦による悲劇をもたらしたのは財政ファイナンスでもなければ高橋財政でもなく、軍に対して民主的統制が及ばないという当時の政治制度上の欠陥であった。
つまり、第二次世界大戦後のハイパーインフレをもたらしたのは健全な民主主義の不在である、これこそが、真の歴史的教訓。
主流派経済学と対比しながらMMTを論じる中で浮き彫りになったのが、人々の常識や経済政策の立案に強くなる影響を及ぼしている主流派経済学が、実際にはいかに現実離れしたものであるかということです。
「マネタリーベースか国債の増加を意味する財政赤字が拡大すれば、通貨あるいは国債が暴落する」という議論も、
増税を前提とせずに財政支出を拡大しようとする行為である「赤字支出」(あるいは「財政拡張」)と、主として民間企業の投資意欲の低下がもたらした収支の結果にすぎない「財政赤字」が混同され、マクロ的な視点が全くと言ってよいほど欠落しています。
税率の引き上げによって、経済規模が不変でも税収を増やそうとする行為である「増税」と、経済成長によって、税率が不変でも税収が増えたという結果である「税収の増加」を混同するようなものです。
また一般均衡理論は、「生産されたものは全て需要される(つまり、生産したモノやサービスは必ず誰かが買ってくれる)というおよそ非現実的な「セイ法則」を採り入れることによってはじめて成立しています。
『一般理論』を『貨幣論I』などで示されたケケインズ本来の貨幣観(内生的貨幣供給論)の下で再構築したのが、MMTと見ることもできる。
MMTへの理論的な批判の多くは、
貨幣観が、主流派経済学は外生的貨幣供給論で、MMTは内生的貨幣供給論であるという、
全く異なるものであることへの理解が不十分であることから生じている。
経常収支の偏りの背景には周期的な国際資本移動のメカニズムが存在し、それが大規模なバブルや国際金融危機をもたらしていると考えられていることを踏まえれば、
経常赤字は海外部門が当該国の金融資産の蓄積を欲した結果にすぎないという議論には、
不均衡の蓄積という観点が欠落した、片手落ちのものではないでしょうか。
米国民間部門の巨額な赤字を踏まえ、世界金融危機に対する警告を発したMMTであればなおさらです。
人々は何のために納税するのか、その主観的な意味が改めて問い直される必要がある。
政府支出の原資は税金でないというMMTの説明では、税金が社会に役立つ何かに使われているという想像力がかきたてられず、人々は高い納税意識を持ち続けられないのではないか
すなわち、租税国家論に代わる新たな物語の不在が、MMTが政策論として定着する上での最大の障害となるのではないか
これが、柴山氏の問題提起です。
支払った税金に対する個人的な見返りを求めるのではなく、
通貨や政府が公益のために果たし得る積極的な役割を認め、そうした制度を共同体の一員として支える行為こそが納税である
と理解すべき。
民主主義に基づいて主権者として通貨や政府の能力を最大限引き出し、民間レベルでは達成困難な公益を実現する
そうした発想の転換が求められている。