疑問を持ち、考えることを諦めない習慣
「質問力は武器になる」というコラムでもお話ししたように、質問する力はその人の能力そのものだと思います。
しかし一方で、関心のないことに質問する気が起きないというのも正論ではあります。
大人になって、質問することが減り、疑問を持つことが少なくなってしまうのは、考えることを止めてしまっているように思えてしまいます。
疑問を持たなくなる、あるいは疑問を持ってもしょうがないと思ってしまう、疑問をスルーする方が楽だと体が覚えてしまう、このようなことで、「考える」ことから少しずつ遠ざかってしまうことが少しばかり心配になってきています。
年齢を重ねるごとに、考えることから遠ざかってしまうのはなぜか?背景を探ってみたいと思います。
人の話をスルーする癖
他人の話を聞いて、わからないことがあっても、この人が言うのだからそんなものなのね、ということで、「へえ~、そうなんだ」で終わらせてしまうことってありませんか?
かくいう私も「へえ~、そうなんだ」と言葉に発して言うこともよくあるし、心の中で思うこともあります。
関心のないこと、元々どうでもいいと思っていることに対して、「へえ~、そうなんだ」は良いのですが、それが癖になることで、大事なこと、本来関心を持つべきことに対して、「へえ~、そうなんだ」が出てしまいます。
この「へえ~、そうなんだ」の代わりに、「えっ、なんで?どうして?」と聞き返す状況を考えてみます。
「なんで?どうして?」に対して、的確に答えが返ってくる場合もあると思うし、それはそれでいい会話だと思いますが、実は意外に多いのが、「私もわかんない」という返事ではないでしょうか?
つまり、伝える側が「私もわかんない」ことを無責任に他人に伝えて、聞く側が「へえ~、そうなんだ」でその情報を受け入れてしまう、ということが巷では頻繁に起こっているというわけです。
かつて私も、コロナに対する誤情報をネットで流してしまったことがあります。大事なことだし、少しでも人の役に立てばとの想いから、疑問なこともありながら、そのまま情報を横流しにしてしまった苦い経験です。
だから偉そうなことを言うつもりはなく、でも、人が情報に対して、考えることを諦めてしまうと、間違った情報がまかり通ってしまって、色々とまずいことに繋がっていくと考え始めたわけです。
「なんで?どうして?」という質問に、「私もわかんない」ではなく、まずまずの答えが返ってきて、その答えにまた疑問が沸いたので、さらに「なぜそうなるの?」などと質問を続けていくと、答える方が不機嫌になってきて、「そんなのわかんないよ」とか「そんなことどうでもいいだろう」となってくることもありますよね。
5歳児の「なんで?なんで?」攻撃に辟易とする親のようなものかもしれません。
実は、単に面倒くさい、ということで考えなくなるということもあると思われるのですが、胸に手を当てて考えると自分にもあるかもしれません。
難問への対応
難しい問題を出されたときに、どういう対応をするかということを考えてみます。
例えば、テレビのクイズ番組を見ていて難しい問題が出たとき、あきらめずに自分で答えを出したいと考えるか、早く正解を発表してくれと思うか、皆さんはどちらでしょう?
私は負けず嫌いな性格でもあり、どうしても自分で答えを出したい方で、時間切れで正解を発表されてしまうと、悔しい気持ちになる方なのですが、それでも年齢とともに、これは無理そうだというレベルの問題だと、正解発表を待っている自分に気づくことがあります。
テレビ番組の場合は、いつかは答えが出てくるということもありますが、普段の生活や仕事の中で難問に遭ったときに、最後に答えが出るのかどうかもわかりません。
そんな時に、最後まで自分で考えようとするか、途中で簡単に諦めてしまうかは、その人の能力向上の可能性に直結するように思います。
難しい問題でなくても、職場や仲間のなかで、ちょっとした質問をメンバーに投げかけてみると、メンバーの資質に関して面白い発見が出来ることがあります。
質問に対しての答えそのものも人によって違うし、答えの質でメンバーの能力も見ることはできます。表面的な答えしか出してこない人は、自分の答えを自分の中で自問自答していないのかもしれません。
また、反対意見に対する対応からもその人の資質が見えることがあります。
自分に自信があるのか、事あるごとに自分と違う意見に対して批判をする人というのが時々いると思います。
このような人が、他人の意見を受け入れないのは、自分の中にある常識や基礎知識が絶対的なものであって、反対意見を言う人がそれをわかっていないと決めつけてしまうことから来るように思います。
自分の中の常識が、他人に通用しないことを認めないのです。
人間は思い込みの塊だというのが私の持論です。思い込みが強い人は、思い込みを否定されることを拒絶しようとします。
自分の中の常識、思い込みに疑問を持たないので、その人の思考はそこから発展していかないことになります。
メンバーに質問を投げかけたときの反応で、時々、「・・・さんの意見を聞いていて思いついたのですが、、、」という枕詞で発言を始める人がいます。
この種の人は、他人の意見の本質を追及する癖を持っていて、かつ、自分の考えや自分の中の常識を見直したり、場合によっては疑うことのできるタイプの人です。
こういうタイプの人が複数いると、議論が発展していくと私は思います。アイデアも膨らんでいきます。
つまり、議論の中で「考える」という行為が行われていくのです。
組織の中で難しい問題に直面した時に、このような「考える」行動をとることが、難問解決への近道であって、個人で問題を抱えたときにも、自分の思い込みに疑問をもって、なぜこうなのか、なぜ自分はこう考えてきたのか、という自問が問題解決への重要なカギになると思います。
きびしい質問を避ける組織
会社内の会議で、やや専門的な話を含んだ報告をする若い人がいるとします。
プレゼンはなかなか上手で,スラスラと説明をしていきます。
何だか新しくて難しいことを言っているな、と周りは聞いていて、すごいな、こいつ、頑張って仕事してるんだ、などと呑気に聞いていると、いつも会議で質問するベテランが、根掘り葉掘りと質問を始めます。
すると先ほどの素晴らしいプレゼンの口調に変化が出てきて、ほとんどの質問に答えられず、タジタジになっていきます。
こんな光景を見たことありませんか?
この会議の前に、小さなチーム内で報告したときには、無難にQ&Aも終わらせたし、プレゼンは成功だと思っていて、今回の会議で質問に答えられずに、赤っ恥をかくことになって本人は落ち込んでしまいます。
この例の若者は、自分が説明している内容をすべて理解していなかった、ということなのですが、難しい言葉で武装して、自分でもすごいことをやっているという自負もあり、自信満々で表面的な報告をしていたことになり、一番の問題は本人ではあるのですが、私は、彼の周りの人たち、先輩や上司などにも問題があるのだと思っています。
この例は、私が企業にいたころに、「それはどういうこと?」「それはなぜ?」「それでは、こことここの説明が成り立たないね?」などという爆弾質問を投げかけて、たくさんの若い人たちを会議中に撃沈させた実話でもあるのですが、若い人たちだけでなく、周りの人たち、つまり直属の上司や先輩なども含めて、組織的な問題なのだということを示しているように思います。
部下や後輩の話を「そうかそうか」と深い疑問を持たずに聞き流してしまい、私は放任主義なので、それで部下を伸ばそうと考えているのです、と胸を張って言ったりします。
このようなことが繰り返されると、若い人たちは、会社組織ってそういうものだと思ってしまい、結果、組織全体でよく言うとお互いを尊重しあって何も指摘しあわず、悪く言うと、他人のやることに関心がなくて「へえ~、そうなんだ」がまかり通って、考えない人たちを生み出しているように思います。
疑問をぶつけあわなくなった組織は、若い人の能力向上のチャンスをつぶして、組織としても陳腐化していくと私は思います。何より、アイデアが育っていかなくなります。
考えるための魔法の言葉
人の知識というのは、その人が生まれてから生きてきた過程で、日々経験したこと、見たり聞いたりした一つ一つは塵のようなことが、積み重なって出来ているものだと思います。
5歳児のころの「なんで?なんで?」から始まって、学校での勉強、受験勉強、テレビからのインプット、読書や雑誌から、そして友達たちとの何気ない会話や行動によって得たものなど、とにかく毎日の自身の活動によって今でも知識は積み上げられて行っています。
自分の持っている知識から自分の中の常識が生まれ、それが思い込みとなって自分の考えが形成され、常識を覆されることを恐れるあまり、外からの情報を好きなようにフィルターをかけてコントロールするために、外に対して疑問を発しなくなる。
これが、疑問を持たなくなるメカニズムのような気がします。
そして疑問を持たないことによって、これまで例に挙げてきたように、「考える」ことから個人も組織も遠ざかっていることがわかっていただけるでしょうか。
考えることを諦めない、ということは、色んなことに興味を持ち続け、疑問を持ち続けることだと私は強調したいと思っています。
「なぜなぜ5回」とはよく聞く言葉ですが、言うは易し、行うは難しですね。
私は自分でも心掛けているのは、「それはなぜですか?」を繰り返すことです。
ちなみに私は、これがすでに口癖になっています。
意外とどんな場面でもしっくりと使える言葉だと思います。
私の企業時代は、この言葉を使い続け、周りからはうるさいジジイだと思われていたかもしれませんが、何人かがこの言葉を真似してくれることで、組織的に「なぜなぜ」の癖を取り戻せると思っています。
個人個人に色んなことに興味を持ちなさい、疑問を口に出しなさいと劇を飛ばしても、なかなか効果は出ないと思いますが、組織の中で「やられたらやり返す」でいいので、お互いに「それはなぜですか?」ということを言い合って、それを組織の中で流行り言葉にすることで、個人ごとの考え方にも変化が現れるはずです。
今、コンサルタントとしての活動で、クライアントさんの若い人たちの技術報告書をレビューさせていただく機会があります。
このとき、クライアント企業の技術分野に関して私は素人ですが、前述の「それはなぜですか?」を繰り返しています。
半年ほど経って、クライアントの若い人たちから、お陰で「考えること」の重要性がわかりました、とコメントをもらえたのが、最近の私の喜びです。
「それはなぜですか?」を職場で、そして自分自身に向けても使ってみてください。
「考える」ということが楽しくなるはずです。