ただ、目の前の人の話を聞くこと。それだけが社会に足りない。|被災と尊厳
1月1日の能登半島地震から6ヶ月が経った。地震が起こる以前・以後のわたしは、明らかに違う人生を歩んでいると感じている。
今年は、修士論文を書く。何を書こうか、書きたいテーマはいっぱいあるけれど、どういう地と図を描けばよいのか考えあぐねていた。そんな矢先、大地が揺れた。
それまで、自分の人生には、震災、防災、減災など、そのようなキーワードは全くと言っていいほど存在していなかった。しかし、これまでやってきたこと、書いてきたこと、読んできたことを世界に説明する容れ物ができたような気がした。
修士論文の助走のような形にはなりますが、この文章を通して、わたしたちがいかに目の前の人の話を聞いてこなかったのか。それが被災地でどのような形で立ち現れているのか。お互いの話を聞き合うためにはどのようなことができるのか。そんなことを考察する時間を対話を重ねた記録をもとにお届けしたいと思います。
たった一人の声を聞くということの困難さについて
わたしに震災というギフトをくれたのは、室山雅という、きっと地球の外側から見ても光っていて、舞っていて、ちょっと一見よく分からないけれど、いつも旗を振り続けているような、そんな彼女の存在だった。
彼女とは、もう長い付き合いになるけれど、この震災を通じて、改めて深く話すようになった。1月には物資の支援、3月には実際に珠洲市を訪れ、交流を図ってきた。
1月から、小さな身体で、ずっとひとり、家も十分に住めない状態のなか、被災者でありながら支援者であるという特殊なポジションを担ってきた。
そして、発災当初から、SNSで現地の状況をつぶさに伝えながら、適切な物資の分配、断水を乗り越えるための洗濯支援の開拓、一人一人の声を聞きながら二次避難の誘導。数えきれないくらいの偉業を成し遂げてきた。
しかし、それはとても静かなるものだった。
決して、彼女は、それで評価されようとか、お金をもらおうとか、有名になろうとかを考えていない。むしろ、一銭も貰わず、ただ毎日を生きている現地の状況を全国を歩き回り伝えてきた。(参考:震災を通ってひらいていく未来)
しかし、何者でもない彼女を「結局何がしたいの?」「何言ってるか分からない」「そんなことより家片付けなよ」そんな言葉で切り付ける二次加害が起きていたことを、誰も知る由はなかった。そんな言葉よりも、次の震災に備えてほしいということだけを伝えたかった。
彼女は、いつも、高屋に住む人たちの声をしっかりと聞いてきた。だから、適切な物資の分配や二次避難の誘導など、ただ効率の名の下に遂行するだけではなく、あらゆることを「ケア」の観点を備えながら、実行してきた。
一方、誰が、彼女の言葉を「被災者」としてではなく、たった一人の存在として耳を傾けてきたのだろうか。
個人的な被災体験をどう社会に還元していくか
ひょんなことから、6月13日、わたしの所属する和歌山大学観光学部・Adamゼミで「個人的な被災体験をどう社会に還元していくか」というテーマでレクチャーをしてもらうことになった。
指導教員であるAdamも福島の震災後について研究する一人だった。生命を肯定するアプローチ(life-affirming approach)を取りながら、福島を見つめている。
Adamとの出会いは、きっと、室山雅という存在にとって、必然的なパズルのピースのひとつだったのではないかと感じる。
レクチャーのなかで、そして、数日を彼女と過ごすなかで、「被災者」としての〇〇さんではなく、たった一人、存在する目の前の人の話として、真っ直ぐに耳を傾けてほしい。そんなことが語られた。
メディアでは、すでに作られたストーリーに合う物語を求めてインタビューが行われることも往々にしてあるだろう。そういうことを何度も経験したことは、彼女の心を静かに切りつけていった。
目の前にいるのは誰か?誰と話をしているのか?その人は何を話し、何を話さないのか?
こういうことは、日常でも基本的なことだと思う。普段から出来ていないことは、もちろん非常時にできるはずがない。
相手をジャッジせず、淡々と話を聞いて、そばにいる。そのことの重要性は、精神科医で医療人類学を研究する宮地尚子さんの『トラウマ』や関連する著書でも触れられている。
Adamは、"I would love to hear more about that"(その話をぜひもっと聞きたい)という姿勢を取り、絶対に"tell me"(話して)という暴力的な言葉は使わない。
被災者とは何か
残念ながら、今の日本では、被災者というレッテルが貼られた瞬間、あらゆる暴力がなだれ込んでくる。それは、きっと、いつか被災者となるわたしたちにも同様に。
だから、今、改めて、被災者とは何か、わたしたちの社会でその言葉はどのように語られているのか。被災者という脆弱な立場に置かれたとしても、尊厳を守る権利があると声を上げるためにはどうすればいいのか。そのようなことを、みんなで考えていく必要がある。
そして、同様に、不可視化されてきた支援者の小さな声もしっかりと社会で耳を傾ける必要がある。
決して、静かに、孤独に涙を流す人が増えないように。傷を抱えながら、共に生きていくことを実現するために。
友人とシーシャに行きます。そして、また、noteを書きます。