エロス:クピド:アモル〜愛はフクザツだ〜
新国立美術館で開催中の「ルーヴル美術館展 愛を描く」を鑑賞後、勝手に広げて調べてみたシリーズ。
今回は、エロスやクピド、天使の違いについてです。
*ここでは基本的にエロスとアプロディテで呼び名を統一します。
エロス:クピド=アモル:キューピッドの違いは?
エロスだとかクピド、プットーと呼ばれる有翼の幼児、あるいは有翼の天使について調べるほどにじつは奥深く、あまりよくわかっていないことが判明しました(泣)。
絵画の中でも主題の中心人物のかたわらにいる彼らはどちらかといえば脇役という立ち位置で、絵画の解釈上にはそれほど話題として持ち上がることがなく、たとえがなんですが、メインディッシュの添え野菜くらいに思ってた。ホントごめんなさい。“神の愛を称える天使たち”って一括りに考えていたところがあって、一括してクピド、天使たち、プットーなどとなんとなく使い分けていました。
唐突ですが、わたしの推し天使はこの子たち↓
まず気になったのは、語源的にもこれらの言葉は同じなのかな?というところ。言語が違えばそれが指し示す意味内容も微妙に違うのはよくあること。
結論から言えば、一般的な美術鑑賞においては気にしなくていい、というスタンスでよろしいようです。この言葉の違いは、ギリシア語:ラテン語:英語 の違いであり、意味はどれも「愛」であるという認識でひとまず理解したことにします。
ひとつだけ注意として、イタリア語でcupidoは「どん欲な」という意味の形容詞なので、固有名詞のErosに対するCupidoにも「欲望/貪欲」が含意されているのかな?と。「愛と欲望のキューピッド」などと言われるのはココに理由があるのかな、と思いました。
実際に絵画の中で見分けるにはまずは持物(アトリビュート)をチェックすることですね。神話画のエロス:クピド=アモル:キューピッドのアトリビュートは矢と矢筒が基本。松明もあります。
エロスと天使の違い
有翼の幼児たちは、神話画では愛の神エロスでありアトリビュートは矢、キリスト教絵画では天使としての有翼の幼児が描かれている、と見分ければまずはOK。
となると、タイトルを見て実際に主題を確認すればこれはだいたい見分けられることになります。ただ、そうとも言えないぞ…というタイプもあるようです。キリスト教の中には古くから異教の神であるエロスを匂わせるような混在したイメージが多くあったようです。
例えばこちら↓
聖人と天使なのですが、なぜか天使は聖テレジアに矢を射ようとしています。
映画『天使と悪魔』にも登場したこの彫刻を見たくてローマで撮った写真ですが、この時には何の違和感もなくみとれてばかりで、矢を持っていることにまーーったく疑問を抱かなかった。
ルネサンス期になると古代復興の機運の中でギリシア・ローマ神話のいわゆるキリスト教にとっての異教の神々が主題として頻繁に登場するようになりますが、美術として表現される以前のイメージとしてははるかに昔からあったようです。
例えば聖アウグスティヌス(354-430年)はその著書『告白』第九巻第二章のなかで
とキリストの愛に対して「愛の矢」という言葉を使っています。
岡田(敬称略、失礼!)によれば
というように、エロスと天使(あるいはクピド)の指し示すところは非常にあいまいで境界線を引きにくいということがわかりました。この本の第一章はとくにキリスト教と異教の神々を語源や聖書、外典などから「違うようで違わないかもよ」ってところが詳しく叙述されています。他にも「キリストは天使だった⁉︎」とか「サタンだってもともとは天使だからね」というような興味深いお話があります。
エロスではなく天使ですが、私の本棚から図像が多数掲載されている書籍を2つ紹介します。画家により時代により、本当にさまざまな姿で描かれてきたことがわかります。
上記 3冊は天使を知る入門書としておすすめです。
知っているようで全然あやふやだったということがわかりすぎました。
かわいらしい姿からは想像できないほど奥深い有翼の幼児たち。
これとは別の話になりますが、わたしは以前から天使の翼の豊かなバリエーションに関心をもっています。画家がなぜそのように描いたのかというイメージの問題や、パトロンの意向はあるのか?翼に託された象徴はあるのか?だとしたら何なのか?などなど天使の翼だけでも調べ甲斐があると思います。
キリスト教と異教の混在イメージの形成についてもどこまでも掘り下げられる問題なのかもしれません。
今回もとても勉強になりました!
イメージの源泉として聖書や外典、あるいはギリシア・ローマ神話のことばをよく読むのは大切だな、とひしひしと感じる結果となりました。
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